17 : 守る手
軽い口調で発せられたプリシュニーの言葉が、凝っていた空気を更に凍えさせてゆく。
その場に居合わせた全ての者がプリシュニーの発言に耳を疑ったが、マルト神群の神々が唯一母と崇める女神の言葉は、聞き違えようもないほどにはっきりとした確信に満ちていて、発言の内容に疑いを抱く余地はなかった。
息を呑んだまま呼吸すら止めてしまったかのように立ち尽くす者、信じられない、有り得ないその情報に愕然とする者、茫然とする者、憤る者、少数ではあるがその事実を察していて ―― しかし今ここで事実が明らかにされてしまった場合、事態がどう推移してゆく事になるのかと危惧して不安な面持ちをする者、様々だったが、その誰もが言葉を紡げないでいた、その沈黙を勢いよく立ち上がったルドラが破った。
肩にかけられたプリシュニーの手を乱暴に跳ね除けて立ち上がったルドラは、見た者全てを震え上がらせるような鋭い視線で自分の一族の者たちを見回した。
そして言う、「そなたら、誰の許しを得てこのような場所に来ているのだ。用事があれば呼ぶから、それまでは龍宮殿で待機しているようにと命じたはず」
「・・・しかし・・・しかし王・・・今の・・・ ―― 」
たどたどしく質問しようとしたアガスティアを、ルドラは更に激しい視線で睨み付けた。
視線だけで人を殺せるのではないかというようなその表情に、マルト神群の神々だけでなく、アーディティア神群の戦神(いくさがみ)も背筋に寒いものが走るのを覚えた。
ルドラのその視線を受け止めたアガスティアは顔を蒼白にし、軽く身体を後ろに引くような素振りを見せながらも、それでもどうしても黙っていられないとでも言うように弱々しく言葉を続ける。
「・・・王よ・・・ ―― 先ほどのプリシュニーさまのお言葉は、どういう事なのか、どうかご説明を・・・!今朝、あの忌まわしい者がお側になどと・・・ ―― っ」
「誰が質問を許した!!」
アガスティアの質問の言葉を遮って、ルドラは怒鳴った。
「まだ安定していない龍宮殿の守りを羅刹王のみに押し付け、このような面子で、このルドラの許可なく城を離れるなど、許されると思っているのか!」
びりびりと空気まで震えるようなルドラの怒声に、アガスティアは打たれたように頭を垂れる。
ルドラは顔を歪めたまま、
「もういい。いいからお前ら、今すぐ龍宮殿に戻れ」
と、吐き捨てるように言う。
だがむろん、力技に近いルドラの強引なやり口に納得など出来るはずもなく、尚も震える口を開こうとしたアガスティアを、手を上げてプリシュニーが止めた。
ただ1人、ルドラの叱責に少しも怯む様子を見せていないプリシュニーは、
「王の許可なくこの者たちをここへ連れてきたのは私ですから、叱責は私が受けるべきですわ。勝手な事をして申し訳ありませんでした。この者たちは直ぐに龍宮殿に帰らせましょう ―― しかしまさか、この私まで追い返しはしないでしょうね、ルドラ?」
と、場違いなまでに明るい声で言った。
プリシュニーの言葉を聞き、その直ぐ後ろに控えていた神の1人が、
「しかしプリシュニーさま、貴女お1人では・・・」
と言うのに、プリシュニーは、
「あの頼りなげな天神の様子を見なさい ―― 大丈夫、私に考えがあるのよ」
と、やはり小声で答えた。
立ち去りかけていたルドラは内容までは聞き取れないものの、明らかに良からぬ事を企んでいる様子のプリシュニーへと振り返り、怒鳴りつけようと口を開いた ―― が、にこやかに自分を見返しているプリシュニーの視線の奥に、絶対に引きはしない。という強い意志が滲んでいるのを見て小さく舌打ちをする。
この女神がこういう目をして主張した物事を覆したのを、これまでに一度も見た事がなかったのだ。
「・・・勝手にしろ」
呻くように、ルドラは言った。
そしてマルト神群とアーディティア神群の間を通ってその広間を後にしようとし ―― その途中で、つかえるように足を止める。
自分の脇でふいに足を止めた自分を見上げるディアウスを見下ろしたルドラは、思わず、反射的にその手を伸ばす。
ここでディアウスに対し、自分が何らかの行動を起こしてはいけないのは分かっていた。
この場はアディティーに任せ、自分は黙って立ち去るのが事態を一番静かに収めるだろう事も、分かっていた。
だが自分を見上げるディアウスの瞳を見た瞬間、そんな分別のようなものは霧散してしまう。
小さいものの厳しい声でルドラの名を呼び、その行動を諌めようとするアディティーの素振りを無視して、ルドラはディアウスを促すように更に手を差し伸べる。
しかしディアウスはきっぱりと首を横に振り、
「いいえ、私はあなたとは行けません、ルドラ王」
と、言った。
「私は天地両神一族を収める者として、今、この場に背を向ける訳には参りません。お分かりでしょう、ルドラ王」
「・・・しかし・・・、そなたをここに残しては・・・」
差し出した手はそのまま、囁くようにそう言うルドラを真っ直ぐに見たディアウスは微かに笑う。
「私はこれまで、様々な事から逃げ続けてきました。しかしこうなった今、それではいけないと思うのです。自分で考えて、自分の意志で行動しなくてはならないと。
ですから ―― 私は大丈夫。大丈夫です、ルドラ王」
ディアウスの顔に浮かぶ笑みを見たルドラは視線を転じ、インドラの指示で広間を後にするマルト神群の神々の後姿を見 ―― それからディアウスの背後にいるアーディティアの神々の表情を見 ―― 目を伏せる。
噛み殺しきれない溜息と共にゆるゆると手を降ろし、思いきるようにその場を足早に立ち去るルドラの背中を数秒の間見送ってから、ディアウスは厳しい顔をして自分を見ている妹をはじめ、天地両神一族の方へと向き直った。
「・・・ディアウス・・・」
振り返ったディアウスの名を、硬い声でパルジャが呼ぶ。
小さく柳眉を寄せてまぶたを伏せたディアウスは、
「すみません、パルジャ。私はあなたの想いには答えられません。私は・・・私は、ルドラ王を愛しています」
と、低い声で言った。
ディアウスの告白を聞いた天地両神一族は恐ろしいまでに押し黙り、パルジャはぐしゃりと顔を歪めて首を横に振った。
それはそれまで何事においてもはっきりとした返事をする事を避け続けてきたディアウスが、初めてきっぱりと自分の意志を他人に対して示した瞬間だった。
だがその礎となっている事実は、到底納得出来るものではなかった ―― パルジャにとっても、むろん、天地両神一族にとっても。
「嘘 ―― 嘘よ・・・嘘だわ・・・!」
長い沈黙を破り、プリティヴィーが激しい感情が滲む声で呟く。
「天地両神一族を統治する兄さまが、そんな ―― 馬鹿な事・・・有り得ない・・・、有り得ないわ・・・」
そう言うプリティヴィーの声は、押さえようもなく震えていた。
怒りからというより、恐怖や、篭める念が強すぎる祈りのように呟く妹を、ディアウスは申し訳なさそうに見た。
こんな風に真実を知らせるつもりはなかった。
が、どう知らせた所で同じ事だったであろうし、どう言った所で妹や一族の者たちを傷つけるのには変わりなかっただろうとも思ったディアウスは、ひとつ深呼吸をしてから真っ直ぐに顔を上げる。
「過去にあった事はなかった事には出来ないけれど、どこかの時点でそれを清算し、前を見なくては発展は有り得ない ―― アディティーはそう言っているし、私もその通りだと思う」
ひとつひとつの言葉を区切るように、ディアウスは言った。
そしてプリティヴィーが反論するより前に、続ける。
「むろん、一朝一夕に切り替えられるとは思わない。でも、いつかやらなくてはならない事ならば、今よりもいい機会はないように思う ―― 先の大戦で両軍が力を合わせてアスラ神群を倒した今をおいて他には」
「だから ―― だから全てを忘れろというのですか、天神 ―― あなたとて、忘れた訳ではありますまい。先祖から聞いた数々の、あの・・・、それなのに・・・ ―――― 」
「もちろん」
口に出すのも、思い出すのも嫌だと言うように途中で言葉を途切れさせたアラーニーを見て、ディアウスは言う。
「そういう過去の事実を忘れる必要はない。ルドラ神群の方々にも、私たち天地両神一族を拒絶し、迫害したという歴史を忘れて欲しくはない。大切なのはそうした過去から得た教訓を、どのように未来に生かしてゆくかを皆で考える事なのではないかと、私はそう思っている。
それに ―― と、言いかけたディアウスは言葉を途切れさせ、続ける言葉を吟味するかのように一瞬空中に視線を流した ―― この件と、先程私が言った件は全く別の話として考えて欲しいとも思う。あれは極めて個人的な話だから」
「別の話?」
と、眉を潜めたプリティヴィーが訊き返す。
「何が別なのか、分からないわ、兄さま。相手はあのマルト神群の王 ―― 私たちの一族を虫けらのように扱ったルドラ王なのよ・・・?」
「プリティヴィー、それにみんなも、冷静になって考えてみて欲しい」
噛んで含めるような言い方で、ディアウスは言う。
「代々のルドラ王がして来た事は確かにとんでもない事だし、実際にそういう事をしたルドラ王の事は今でも憎い。でも先程こちらにいらしたルドラ王は、預知者を意味もなく殺したりなさるような方ではない。名前を引き継いでいるからと言って、思考や行動に至るまでの全てをそっくりそのまま引き継いでいる訳ではない。それは私たちも同じなのでは?」
「・・・そのような理屈が通ると、本気で思っていらっしゃるの、兄さま」
低い声で、プリティヴィーが聞く。
「いや、思っていない」
あっさりと、ディアウスは言った。
「少なくとも、今の時点ではね」
ルドラ王が広間を立ち去って行く前からずっと、その精神をささえようとするかのようにディアウスの腕を掴んでいたアディティーが静かにそう付け加えるのを聞いて、ディアウスはアディティーの方を見て微笑み、頷く。
「・・・だからこれから、私が皆をその様に導いてゆく努力をしてゆくつもりです。それには皆の協力が必要なのです ―― 協力して下さるわね」
自分を取り囲むようにして立っているそれぞれの一族の王の顔を見回し、アディティーは言った。
「 ―― 全ては無垢の女神のお心のままに」
真っ先に、暁の女神がはっきりとした口調で言い、それを合図として戦神(いくさがみ)の一族を率いる王たちが次々に同様の意志を示して頷き、戦神(いくさがみ)以外の一族の王たちがそれに続いた。
そして最後にディアウスが、
「微力ながら全力でお手伝いします、無垢の女神」
と言ったが、天地両神一族の誰もが表情を固くして、微かな身動きをする者さえいなかった。