月に哭く

18 : 嫉妬

 その日は渋々といった風に身を引いたものの、それを境にして、ルドラは開き直ったかのように頻繁にアーディティア神殿に姿を現すようになった。
 それにつられるように、それまで天地両神一族に気を遣って表立った行動に出ていなかったアーディティア神群の戦神(いくさがみ)達もルドラに招かれて龍宮殿を訪れたり、ルドラと共にやって来たマルト神群の戦神(いくさがみ)と交流の場を持つようになった。

 やがて戦神(いくさがみ)ではない一族もその場に姿を現すようになったが、いつまで経ってもそこに天地両神一族の神が姿を現すことはなかった。
 しかしアディティーもディアウスも、そしてその他の神々も、それについては何も言わなかった。
 彼らが抱くマルト神群への憎悪の思いがどれ程大きいものかを知らない者はいなかったし、この問題に関して周りの者が焦れて口を出したりしては、事態が更にこじれてゆくだけだと誰もが分かっていたのだ。
 かつて、遠い過去、彼らが持つ預知の能力をルドラ一族が忌み嫌い、“預知者狩り”を始めた頃と同様、彼らは日に日に頑なに、自分たち一族の殻に閉じこもってゆくようだった。
 ただ唯一、天地両神一族の頂点に立つディアウスだけが他の一族と頻繁な交流を持っていて ―― それは数十年前、プリティヴィーが一族の殻を破って他の一族と交流をし始めた光景ととてもよく似ていた。

 そんな或る夜。

 扉が閉められる微かな物音を聞きつけて、プリティヴィーは目を覚ました。
 電光石火の勢いで身体を起こして隣室を覗き、そこで寝ていたはずの兄の姿を確かめたプリティヴィーは、空になった寝台を見て唇を噛む。

 どれだけ厳重な見張りを立てても、ルドラ王がやってきている日、兄はこうして部屋を出て行き、明け方まで帰ってこない。
 天地両神一族の誰もが必死になってディアウスのこのとんでもない危険な行動を、取り返しがつかないような事態になってしまう前に止めたいと必死になっているのに ―― その想いがどんなに激しく、強いものか、兄は誰よりも一番よく分かっている筈なのに ―― 誰がどう言っても、兄はその行動をやめようとはしなかった。

 少し前まで、一族の、そして自分の願いを兄がこうまで邪険に扱った事はなかったのだ。
 特に生まれた瞬間から・・・いや、その前から何もかもを分け合ってきた兄が自分に隠し事をしたり、こうしてこっそりと自分を放ってどこかに行ってしまうなど、そんな日が来るなど、考えた事もなかった。
 それもこれも、全てルドラ王のせいなのだと、そう思うとルドラ王が憎かった。
 狂いそうなくらいに憎くて憎くてたまらないと、プリティヴィーは思う。
 この想いとて、兄は分かっている筈なのに・・・ ―― 。

 身体中の空気を搾り出すような溜息をついてから、プリティヴィーは別室にいる他の者を起こさないように細心の注意を払いながら部屋を出る。
 廊下のどこにもディアウスの姿はなかったが、兄がどこに行ったのかなど、もう分かりきっている ―― そう考えたところで再び溜息をつき、プリティヴィーは足早にアディティーの神殿の離れへと向かう。
 今日こそ途中で兄を捕まえて、部屋に引き戻そうと決意しながら。

 しかし途中、アディティーの神殿中庭にあるあずまやにルドラの姿があるのに気付いたプリティヴィーは、反射的に木陰に身を隠した。

 この数ヶ月で、アーディティア神群の領地内で彼や彼が率いるルドラ一族の姿を見かける事が飛躍的に増えてはいたが、やはり何をどう言われても ―― 他の一族の長老たちが“あのルドラ王はこれまでのルドラ王とは全く違う”と言っているのを知っていても ―― 彼らの姿を見ると恐怖しか感じないプリティヴィーだった。
 兄であるディアウスも昔、彼の話を聞くだけで気分を悪くしていたものだ。そのルドラ王を愛するなど有り得ないと、プリティヴィーは改めて思う。
 彼女自身、それが確信なのか希望なのか分からなかったが、とにかく想像が出来ないのだ。
 慎重な性格の兄がルドラ王を愛していると断言した、その声音に怯えや脅迫されているような影はなかったけれども、そこにはきっと何かとんでもない、良からぬ思惑が潜んでいて、それに兄は気付いていないに違いない。
 その闇から兄を救えるのは自分だけなのだと決意を新たにし、まだここに来ていないらしいディアウスを探しに行こうと木陰を伝ってその場を後にしようとしたプリティヴィーは ―― ルドラが手にした本からふいに顔を上げたのを見て肝を冷やす。
 注意深く気配を消していたつもりだったが、気付かれたのかと思ったのだ、しかし ―― しかし、小さな物音と共にそこへ姿を現したのはディアウスで、その姿を見たルドラの表情がふっと和らいだ。
 差し伸べられた腕に飛び込んだディアウスが顔をあげ、2人はどちらからともなく、引き合うように口付けてゆく。
 徐々に激しくなってゆく口付けの果て、ディアウスが苦しげに笑いながらルドラの胸を押した。
 薄く笑ったルドラが更に深くディアウスを抱き寄せ、その耳に何事かを囁きかける。
 されるがままに大人しくルドラの胸に身体を預けたディアウスは微笑みながら目を伏せ ―― 影からその光景を見ていたプリティヴィーは、震える両手を強く握りしめ、泣き出したくなるのを唇を噛み締めて堪えた。

 身体を覆う震えは怒りなどから来るものではなかった。むろん、ルドラ王に対する憤りのような思いもある。
 だがその時自分が感じているものの大半が、嫉妬やもどかしさという言葉で表現される感情である事を、プリティヴィーははっきりと自覚していた。

 ルドラ王の腕に抱かれた兄の表情 ―― あれ程安心しきった、柔らかな笑顔を浮かべる兄を見たのはいつの事であったか、どんなに考えてもプリティヴィーには思い出せなかったのだ。

 そう、兄であるディアウスと自分の間にある距離 ―― 昔は全くなかったはずの距離が2人の間に生じていると気付いたのは、もう思い出すことさえ出来ない、はるか以前の事だった。
 気付いた時、それは既にそこにあり、その後なくなる事はなかった ―― いや、なくなるどころかそれは時と共に開く一方だった。

 一番の違いは、預知の能力に対する考え方なのであろうと、プリティヴィーは思う。
 周りの一族や他の一族にどんなに誉めそやされても、兄が預知の能力に全くと言って良い程に自信を持ってはおらず、その力を忌むべきもの、恐怖そのものであると感じているのは知っていた。
 プリティヴィーにはそれが分からなかったのだ ―― 彼女にとって自分が持つ預知の力は他の神が持つどんな強大な力とも比べられない素晴らしいものであり、その自信は昔から絶対的なものであったから。
 この世を創造した“一切神”に選ばれた自分が、誰にも聞けないかの神の声を聞き ―― その瞬間に全身で感じる、自分の中の全てが神の手に委ねられる時の震えるような誇らしさ・・・。
 兄がどうしてこの力に恐怖を覚えたりしているのか、プリティヴィーには全く理解出来なかった。
 兄は自分を含め、天地両神一族の者がどんな努力を積み重ねても手に出来ない純粋で強大な、預知の真髄のような力を有しているというのに、それなのに、何故・・・ ―― 。

 疑問はやがて、“努力し続けていつの日か、兄にもこの誇りを持ってもらいたい”という望みに変わってゆき ―― 時が経つにつれ、プリティヴィーにとってその望みは単なる望みではなく、使命のような意味合いさえ帯びてゆく。
 努力し続ければ、いつの日か必ず、兄は自分と同じような気持ちになってくれるに違いないと、プリティヴィーは信じていた。
 命さえ分け合って生まれてきた自分たちなのだ、想いを分け合う事など、努力さえすれば造作ないに違いない、と。
 そしてプリティヴィーはそれと同時に、兄にまだお互いが子供だった昔と同じような笑顔をも取り戻させたいと考えており、その為に日々様々な努力をし続けていたのだ。

 しかしあずまやで抱き合う2人の様子は、これまでの自分の努力が何の意味もなかったのだと物語っているように思え ―― そう感じた瞬間、どうしてよ、とプリティヴィーは木陰から飛び出して行って叫びたくなる。
 兄の肩を掴んで、思い切り揺さぶって、問いただしたくなる。

 何故 ―― 何故 ―― 何故、私では駄目だったのか。
 長い、長い歳月を共に生き、支え合って来た自分では何故駄目だったのか。
 自分では駄目なのに、どうして敵であるルドラ王の腕の中で、そんなに安らかに笑えるのか・・・ ―― 。

 その場に隠れている事が耐え切れなくなったプリティヴィーは、逃げるように木陰を抜け出し、目的なく夜の闇の中へと駆け出した。

 まるで何かに追われているかのように、闇雲に目的もなく走り続けた果てに何かに突き当たり、悲鳴と共に後方に倒れかかったプリティヴィーを慌てて引き止めたのは、夜警をしていた死者の王ヤマだった。

「プリティヴィー、そなた、こんな所で一体何を・・・」
 と、ヤマは尋ねかけたが、すぐに普通ではないプリティヴィーの様子に気付いて口をつぐむ。
 一瞬の間考えて、ヤマはプリティヴィーを夜警の際に休憩所として使っている小屋へと連れてゆく。プリティヴィーを伴って入ってきたヤマを見て、そこにいた風神ヴァータがやはり驚いて立ち上がった。
「プリティヴィーじゃないか!こんな時間に、何故そなたがこんな所に・・・!」
「ここへ帰ってくる途中で偶然会ったのだ。運が良かった」
 ヤマは言い、プリティヴィーを火の側に座らせ、そこにかけてあった暖かいお茶を椀に注ぎ、彼女に差し出す。
 プリティヴィーは小さく礼の言葉を口にし、手に持った椀に唇をつける。

 短い沈黙があって、やがてプリティヴィーの頬から伝い落ちた涙が椀の中のお茶に薄い波紋を立てるのを見たヤマとヴァータは、ちらりと互いの視線を交し合った。

 夜警にあたる戦神(いくさがみ)たちは、ディアウスが夜の闇に紛れてルドラ王に会いに行く光景を、随分前から実際に見て、知っていた。
 天地両神一族の気持ちだけでなく、ルドラ一族の気持ちも鑑みて、様々に不安がる戦神(いくさがみ)が多かった。が、結局最後に到達するのは、何を言ってもあのディアウスと、誰の目も気にせずにディアウスを守ろうとしたルドラの気持ちが変わる筈はないだろうという結論だったのだ。

 そういった背景がある中、少し考えてみれば彼女に何が起きてどうしてこんな所にいるのか、容易に想像がついた。

「プリティヴィー」
 プリティヴィーが最後の涙の雫を指先で払うのを見ながら、ヴァータが静かに口を開く。
「そなたたち一族の気持ちが分からないではない。かつてのルドラ一族のあの残虐な行為は、到底許されるようなものではなく、本当に酷い仕打ちであったと思うしな。だがアディティー様がおっしゃったように、マルト神群との係わり合いを見直すのは今しかないのではないかとも思うのだ。そなたとて、本当のところでは分かっているのではないか。
それに・・・ ―― 」
 そこまで言いかけて先を言い淀んだヴァータだったが、眉間に小さく皺を寄せて何かを考え込むような素振りをしてから、再び口を開く。
「それに・・・、今あの2人に何を言っても・・・、反対するのは却って逆効果なのではないかと、そういう気もするのだ」
「・・・つまり・・・黙って見ていろという事・・・?でも、でももし兄さまの身に何かあったら・・・?」
「彼は確かに身体は弱いが、その分を埋め合わせて余りあるほどに聡い神だ。そなたはディアウスを信じないのか?」
「・・・それでも・・・、万一の事を考えてしまうのよ。ルドラ王はいいかもしれない。でもその周りは?ルドラ一族の、他の戦神(いくさがみ)が兄さまの事をどう考えているかなんて、想像するまでもないわ。
 それを考えるとやはり私は ―― 怖いの・・・怖いのよ・・・」
 呻くように言ってあげた右手で額を押さえたプリティヴィーに、それまで沈黙していたヤマが、
「これまでそなたは・・・そなたたちは俺が何を言っても聞く耳など持たぬと思っていたから、言わなかったが ―― この際だからはっきりと俺の考えを言わせてもらっても良いか」
 と、尋ねた。

 短い間をとってからプリティヴィーが首を縦に振ったのを確認し、ヤマは続ける。

「確かにヴァータが言うとおり、そなたが不安がる理由はとてもよく分かる。不安が現実となる可能性がないなどと言える者は誰もいないだろうし、ディアウスとて、そんな事は理解の上だろう。
だがな、そう知っていてもルドラ王を選んだディアウスの気持ちが、俺には分かる気がするのだ」
「・・・何故・・・?」
 普段であればすぐに声を荒げる場面だったが、プリティヴィーは力の抜けたような、感情の篭らない声で聞き返す。
 そんなプリティヴィーを真っ直ぐに見ながら、ヤマは言う。
「何故か ―― その理由はそなたが、そなたたちが自ら探そうとしなければ意味はないだろう。しかしその理由が理解できた暁には、そなたが感じているディアウスとの距離を埋めることも可能になるのではないかと思う」
 ゆっくりと、ゆっくりと紡がれてゆくヤマの言葉が、いつもとは全く違う色合いを帯びてプリティヴィーの心に染みてゆく。

 プリティヴィーは思い出していた ―― そりが合わず、顔を合わせる度に言い争いとまでは行かずとも(ヤマは他人と好んで言い争いをする性格ではなかった)不穏な空気を漂わせてばかりいる自分とヤマの様子を見ていた暁の女神ウシャスが以前、言っていた言葉。

 ヤマはどんな時でも大局的な見地から見た意見を口にしている。そう頑なにならず、時には冷静に彼の言葉に耳を傾けてみるべきだ。
 得るものは決して少なくはないと、私は思う・・・ ―――― 。

 だが、そう言われて、そうしてみようと思っても、ルドラ王やその一族の事について考えようとするだけで、プリティヴィーの心には反射的な嫌悪感しか浮かんでこない。
 かの王をこの手で治療“してしまった”という事実すら、許される事であったのかと未だ自問せずにはいられないプリティヴィーなのだ。

 反論はしないものの、頑固そうに唇を引き結んで黙りこくっているプリティヴィーを見て、ヤマもヴァータも、それ以上何も言おうとはしなかった。