月に哭く

19 : 伝えられなかった真実

 ヤマが想像した通り、自分の一族、そして他の一族が抱いている危惧の内容を、ディアウスはほぼ正確な形で把握していた。
 当たり前だが一族の想いは特に ―― 妹であるプリティヴィーが“どうして自分ではいけなかったのか”と思っている事もディアウスは分かっていて、それを申し訳ないと感じてさえいた。

 だが、ディアウスが予測していたのはそれだけではなかった。
 事態がこういう風になるずっと以前 ―― まだルドラに対し、反射的な恐怖を覚えていた頃から、ディアウスは彼に迫る危険の色が増しているのもまた、感じとっていたのだ。
 しかもルドラの上に降りかかる危険が自分の上に降りかかるそれとは比べ物にならない程に大きく、またその危険は“他の一族によってもたらされるものではないかもしれない”だけに防ぎようがないかもしれないという複雑な不安をも孕んでいるのだ。

 自分たちが抱きあっている感情は決して祝福される事などなく、祝福されるどころか彼の生命を脅かすものになるかもしれない ―― いつかルドラが自分の元から去って行ってしまう ―― 永久に ―― 考えるだけで、ディアウスは自分の足元の地面が唐突になくなってしまうような気分になった。
 崩れてゆくのではない、突然、何の前触れもなく、自分が暗黒の闇に落ち込んで行ってしまうような感覚・・・ ―― 。

 ディアウスは昔から他人と付き合うのが苦手で、恋愛などもっての他だと考えていた。
 それは人を愛して、その相手に何事かが起きるのを預知してしまうのではないかという恐怖から来るものなのだと考えていた。
 むろんそれもある。大いにある。あるがしかし、決してそれだけではなかったのだ ―― その事実を、ディアウスは今になって理解する。

 恐怖そのものでしかない力を内包する自分が、他人をそう簡単に愛したり出来る筈もない。
 けれどいつか、誰かと出会ってしまい、その相手を愛してしまった場合 ―― その愛は恐らく、適当に取り替えのきくような類のものにはならないだろう、それは深く考えを巡らすまでもなく、決まっているようなものだ。
 そうした唯一無二の、かけがえのない存在に出会ったら ―― きっと自分は、否応もなく精神的にのめりこんでしまうだろうという予感、それこそが恐怖だったのだ。
 揺ぎ無く、1人で立っている必死の努力をしていた自分の重心が傾いでいってしまう、その揺らぎを想像するのが恐ろしかったのだ。
 現に今も・・・ ―――― 。

 と、考えながら廊下を歩いていたディアウスは、向かっていた自室の前に人影があるのに気付き、足を止めた。

「ちょっとお話があるんだけれど、時間をとっていただけるかしら」
 柱の影から姿を現し、そう言ったプリシュニーを暫く眺めてから、ディアウスは、もちろんです。と答えて微笑んだ。
「それにしても、よくここまでお一人で入って来られましたね」
「あら」、とプリシュニーは馬鹿にするように鼻で笑った、「あんな警備が警備だと思っているのなら、考え直したほうがいいんじゃなくて。龍宮殿であんな生ぬるい警備をしようものなら、厳罰ものよ、はっきり言って」
「・・・そうでしょうね」、とディアウスは自分が簡単にルドラ王に会いに行けている現状を考えながら頷いた、「とりあえず立ち話も何ですから、中にお入り下さい。この辺も夜になると冷えますから」
 ディアウスに促されたプリシュニーは、一瞬の半分ほど躊躇った後、注意深く様子を伺いながら部屋の中に足を踏み入れた。
「大丈夫ですよ、誰もいません」
 ディアウスは言って、音を立てずに扉を閉めた。
 そしてプリシュニーに椅子をすすめ、ゆっくりとした動作で部屋の片隅にある棚から小さな箱を取り出し、蓋を開けた。その途端、微かな芳香がプリシュニーの鼻をくすぐる。
 嫌な匂いではなかったが、嗅ぎ慣れないその匂いに思わず眉を寄せたのを見たディアウスに笑われた気がして、プリシュニーは軽く咳払いをした。
 が、木と土で作られたアーディティアの神殿では、その咳払いの音すらいつもと違う風に聞こえ、更に苛々する。
 普段過ごしている龍宮殿と違い過ぎるこの明るい神殿と、目の前にいる神の恐ろしいまでに深く澄んだ青の双眸が、不快な気分を更に高めるのだとプリシュニーは思う。

 そう、プリティヴィーがマルト神群について考えるだけで恐怖を覚えるのと同様に、幼い頃から天地両神一族の“忌まわしく、呪わしい力の数々”について聞かされて来ているプリシュニーもまた、彼らについて考えるだけで反射的な嫌悪感を抱いてしまうのだった。
 だがその想いを気力で押さえ込み、プリシュニーは毅然とした態度で顔を上げる。

「・・・話というのは他でもないわ。あなたと、我が王ルドラの事よ ―― ルドラとは、別れて頂きたいの」
 と、プリシュニーが言うと、お茶を作りかけていたディアウスの指先がぴくりと震えた。
 隠そうとしても隠しきれなかった、という風な小さな動揺の片鱗を見せるディアウスの細い背中を見て、やはり、とプリシュニーは思う。

 龍宮殿で初めてディアウスを見た時から、ひとつの一族を治めているにしては余りに不安定で弱々しい雰囲気が、この神の最大の弱点だろうと感じていたプリシュニーだった。
 強い者だけが生き残れるマルト神群で生きてきたプリシュニーにとって、ディアウスの弱さは罪のようにすら見えていたのだ。
 しかしこの神がこのような性格だからこそ、自分はそう骨を折る事なく簡単に計画を遂行出来るのだとも思い、プリシュニーは鷹揚に笑ってみせながら続ける。

「あなたと王との事は、もう大分前から感付いていたけれど・・・、それが事実であると露見した今、反対の声は日に日に高まっているのよ。もちろんそちらも同じ状況でしょうけれど、何にせよこの現状でそういうのって、問題なんじゃないのかしら。
 王であるあなたの記憶を勝手にどうこうしてしまうような一族にいらしては、我がルドラ王に執着したくなる気持ちも分からないではないわ。俄かには信じ難いようなとんでもない暴挙だと思うし、そんな一族の長であるあなたに同情しなくもない。
 でもあなたのその甘えがルドラの命を脅かす一端になっている事を考えれば・・・」
「分かりました」
 ゆっくりと振り返ったディアウスが、プリシュニーの言葉を遮ってきっぱりと、そしてあっさりと答え ―― 唐突な、想像もしていなかったその展開に、プリシュニーは言葉と感情の持って行く先を見失う。

 ディアウスは静かにプリシュニーに近付き、手にした椀を彼女に向けて差し出した。
「プリシュニーさまがおっしゃりたい事は全て、分かっているつもりです。
 そうですね ―― 私は早いうちに・・・明日にでも、天地(てんち)に赴く事にしましょう。あそこに行けばルドラ王とは絶対に会えなくなりますし、ルドラ王もあそこには来られませんから」

「・・・ちょっと待ってよ、何それ・・・、どうしてそんなあっさりと承諾するの・・・?」
 茫然とした口調でプリシュニーが聞き返すのを聞いて、ディアウスは堪えきれないという雰囲気で吹き出した。
「ちょっとっ、何がおかしいのよ!?」
 プリシュニーが一瞬にして表情を荒げて叫ぶのを見て、ディアウスは慌てたように笑いの浮かぶ唇を指で押さえ、すみません。と謝ってから、
「・・・でも・・・、何も言わずに要求を呑むと言っているのに、その理由まで聞きたいとおっしゃるのですか?」
 と、言った。
 笑いを堪える様子のディアウスを見たプリシュニーは更に表情を歪め、差し出されたままだった椀を勢いよく横に払いのける。
「うるさいわね!確かに私はルドラとあなたが別れて欲しいと願っているわ、でも・・・でも!王が蔑ろにされ、馬鹿にされているのを黙って見てはいられないのよ!
 私が聞きたいのは ―― あなたのルドラに対する気持ちはそんな簡単に、私がちょっと意見しただけで諦めて、身を引けてしまうような、適当なものなのかという事よ!あなたは ―― ルドラを愛しているのではなかったの!?遊びだったとでも言うの・・・!!」
 硝子の椀が床に落ちて砕け散り、零れたお茶で敷布が黒く染まってゆくのをちらりと見て、ディアウスは小さく息をつく。
「・・・暴風雨神と言われる一族の方々が、唯一崇める女神だけの事はありますね。何よりも、どんな事よりも、王を尊ぶ・・・ ―― 」
「誤魔化すのはやめてよ、答えなさい、早く!返答の内容如何では、私にだって考えがあるわ・・・!」
 足を踏み鳴らすようにして叫んだプリシュニーを困ったように眺めてから、ディアウスはすっと目を伏せた。
 そして言う、「愛して、いるからこそです」
「・・・え・・・?」、意味が分からず、プリシュニーは聞き返す。
「私の一族がマルト神群を受け入れられないのと同様に、マルト神群の ―― ルドラ一族の方々も我々をそう簡単に受け入れられないだろう事は、最初から分かっていました。アディティーが言っていた“全てを水に流してやり直す”という考えや、ルドラさまが言う“時間をかけて、ゆっくりとやってゆくしかない”という考えに反対する気は毛頭ありません。しかし他の事ならいざ知らず、私たちとルドラ一族の方々の間にあるわだかまりは大きすぎて ―― 到底改善されるものとは思えない。ゆっくりと、時間をかければどうこうという問題ではないように、私には思えてならないのです。プリシュニーさまも、そう思われたからこそ、ここにいらしているのですよね」
 淡々とした口調で指摘され、プリシュニーは頷く必要すら感じなかった。
 ディアウスは薄く、自嘲気味な笑いを口元にひらめかせ、続ける。
「そして、“ルドラ王”という存在の在り方が、この状況下でどういう作用をしてゆくのか ―― それを想像したのはプリシュニーさま、あなただけではありません。恐らくこのままでは今後、私に迫る危険より、ルドラ王に迫る危険の方が大きくなってゆくでしょう。一方からの脅威に心を配っていれば良い私と違い、ルドラ王の場合は多方面から迫る危険に気を配らなくてはならいのですから。そして私は ―― その脅威に耐えてゆく自信が、ないのです」
「耐える・・・?」
 ええ、と頷き、ディアウスは苦しげに胸を押さえて俯いた。
「いつ自分がルドラ王の死の場面を預知してしまうのか ―― でもきっと私はいつの日か、この目で、その光景を預知(み)てしまう ―― 私には分かるのです、プリシュニーさま。そういう予感がするのです。こんな恐怖に私は、これ以上、とても耐えてゆけそうにありません。そしてこの恐ろしい未来を変えるためには、私があの方の側を離れるのが一番良いのです。多分・・・」
「な、にを ―― 言っているのか ―― 分から、ないわ・・・ ―― 」

 引き攣れるような口調で言うディアウスの、揺れる大地色の髪の隙間から覗く青の瞳の色が奇妙に揺らめいているように見え、その事にどうしようもない恐怖のような気持ちを抱きながら、プリシュニーは呟く。

「だって、あなたは ―― 未来を・・・自由に見る事が ―― 出来る、のでしょう・・・?変える事だって ―― 自由だって・・・ ―― そうでは・・・ないの・・・?」
たどたどしく尋ねるプリシュニーを、ディアウスは涙に濡れた目を上げて見た。
「・・・預知者が預知(み)る物事を選択し得るのであれば ―― そしてそれを自由に、思うように変える事を許されているのであれば、確かに我々一族はアガスティアさまがおっしゃっていたように驚異的な存在になるのでしょうが・・・そうではないからこそ、我々はここにこうしているのです。
 恐らく我が一族が代々そうした預知の負の部分とも言える事実をひた隠しにしてしまった事も、誤解を生む要因になったのでしょうね・・・、すぐに信じてもらおうとは思いませんが、これがまぎれもない事実なのです。私たちは、一切神がお降ろしになる預知をただ受けるだけの器に過ぎないのです。そして今、私がこうして未来を変えようと足掻いている事は、預知者の禁忌を犯す事にさえなるのですが ―― しかし・・・、この預知だけは、私は絶対に見たくないのです。禁忌を犯したことで、この身にどんな罰を受けようと」
「 ―― じゃあ・・・、それじゃああなたは・・・、愛する者の死にゆく光景をいつ見るかさえ分からず・・・、恐怖の日々を過ごしていると言うの・・・?預知者というものは、そういうものだと言うの・・・?一体・・・何のために、そんな・・・!」
「・・・預知者の存在理由がどこにあるのか ―― それは私にも、未だにはっきりとは分かりません。降ろされる預知になんの意味があるのかも、分かりません。
 ただ言えるのは、私たち預知者に出来る事はそう多くないのだという事です。私たちに出来るのは、悪い預知がただの夢であるようにと、当て所なく祈るだけなのです・・・」

 一瞬取り乱したディアウスが悲しげに紡いだその言葉と、次いで呟かれた“ルドラ王が心安らかに過ごせるように祈っている”という力ない呟きに秘められた悲痛な想いは、その部屋を出た後もずっと、プリシュニーの心に棘のようにつき刺さり、中々消えなかった。