3 : 白い疑惑
それから季節が変わり、変わった季節が終りに近付いても、ルドラは目覚めなかった。
自分以外の者にルドラ王の治療を任せる事を心許ないと感じたプリティヴィーは、天地両神一族の長老連が、
『ディアウス様が治療をなさるのは問題外ではある。しかしそのディアウス様と双神であられるプリティヴィー様がああまでされるのも、やはり問題ではあるまいか?』
と眉を顰めるほど完璧な治療をその手で施していたが、ルドラが目覚める気配はない。
ルドラ王はこのまま、目覚めないのではないか ―― そんな風に危惧する者もいたし、このままルドラ王の身をアーディティア神殿においておくと、まずい事になるのではと不安がる者もいた。
同じ戦場で敵を一にして戦っていたとはいえ、今現在もアーディティア神群とマルト神群の関係は良好なものとは言えなかったのだからそれも当然だった。
そもそも両神群は“ヴリトラ神率いるアスラ神群を壊滅させる”という目的のみで繋がっていただけであり、目的が達せられ、戦が終ればその関係は元通り“味方というより敵に近い”と表現出来る状態に戻るだけなのだ。
ルドラ王自身が全くアーディティア神殿から出てこないという異常さの理由をあれこれと勘ぐっているであろうルドラ一族の戦神(いくさがみ)達の暴走によって、両神群の関係が一気に悪化する可能性は常にあった。
死者の王ヤマから、“ルドラ一族はその血で王を定めない。力を奮えなくなった、自ら立ち上がれなくなった王は殺されてしまう”という事実を知らされていたのはほんの一握りの者だけだった為、そんな事とは露とも思わないアーディティアの神々(アーディティア神群に属する一族の多くは、その王位は王族の血によって受け継がれるものだったので)の、“とりあえずルドラ王の病状だけでもマルト神群に知らせてはどうか”、“一応の小康状態となっている今、その身をマルト神群に戻したらどうか”という声は日に日に大きくなる。
だが事実が事実である以上、ルドラの今の病状は隠し切らねば、それこそアーディティア神群とマルト神群の間で戦になる事態もあり得たし ―― かと言って、逆にこのままルドラ王が目覚めなければ王の身を案じたルドラ一族がアーディティアに攻撃をしかけてくる事態も考えられた。
事実、王の御機嫌伺いと称して数回アーディティア神殿にやって来ていた英雄神インドラも、これ以上王が沈黙を続ければもう事実を隠してはおけないだろうと疲れきった表情で語っていたのだ。
ルドラ王が実際にマルト神群の領地に帰らなくとも、その手で書いた書面でもあれば少しは事態を変える事が出来たが、ルドラが全く意識を取り戻さない今、それは無理な話というものだ。
表面上にはっきりとは現れていなかったものの、裏では正に“手も足も出ない”という状況だった。
そんな中、最も神経を窶していたのはプリティヴィーであったかもしれない。
一族の者達には“治療が丁寧過ぎる”と責められ、他の一族の王や神々たちには“ルドラ王の病状を一刻も早くなんとか出来ないのか”と切実に懇願され、また、影で兄には“私が一度こっそり様子を見に行って、治療してみては駄目かな?”などとも言われていたのだ。
その上このままでは王を取り戻そうとするルドラ一族と戦になるかもしれないなどと聞かされては、全くいい加減にして欲しいと泣き喚きたくなる。
勿論ルドラ王が自分の神群に帰って欲しいとは思っていたし、ルドラ一族がこの忌々しい存在を迎えに来てくれるというのは喜ばしいことこの上ない。
だが今となっては ―― ここまで数月の間、夜も昼もなく治療をしてきた今となっては ―― 迎えに来る目的が“瀕死の王は必要ないから殺すため”などというのでは至極不愉快だった。
不愉快というのは、治療をした事によってルドラ王に情が移ったなどという理由からでは決してない。
ただ最終的に殺す事になるのであれば、寝る間も惜しんで治療をした自分の努力は全く無意味なものだったのかといううんざりとした気持ち、そしてこんな事になるのであれば最初から治療などせず、この手で切り刻むようにして殺してやったのに。と考えるたび、腹立たしくなるのだ。
そうした大小さまざまな規模の思惑と不安が最高潮に達していた、ある初夏の夕暮れ ―― ルドラ王が、唐突に目覚めた。
目を開けたルドラ王はまず、緩慢な動きで枕の下へと手を伸ばそうとした。
いつも目を閉じる際には必ずその場所に短剣を忍ばせるのを常としていた故の、反射的な行動だった。
だが腕に力は入らず、掛けられた寝具を払うことさえ出来ない。
起こそうとした身体も寝台に縛りつけられたように動かず、ルドラは目だけを動かして辺りの様子を伺う。
「ここは、アーディティア神殿です」
ふいに機械的な声をかけられ、弾かれたように(とはいえ、客観的に見たら緩慢な動きであったが)そちらを見たルドラの目が、プリティヴィーを捉えた。
彼の双眸に一瞬の1/3程の間、どこか奇妙な影がよぎるのをその場にいた誰もが認めたが ―― その影はあっと言う間にルドラの目から消え去る。
起き上がったり、動こうとするのを諦めるように溜息をつき、ルドラは身体を寝台に深く沈めた。
プリティヴィーの後ろに控えていたヤマは、側にいた女官にアディティーを呼んでくるようにと言いつけてからルドラの枕辺に近寄り、
「俺が分かるか、ルドラ王」
と、尋ねた。
「むろんだ、死者の王」
と、ルドラは気だるげな声で答えた。
「・・・それで・・・、俺はどうしてここに?」
「あの傷は天地両神一族の力なくては癒せないと思い、俺がここまで連れて来たのだ」
「・・・インドラは?」
「破壊された龍宮殿を再建させろというルドラ王の命に従って、一族を取りまとめている」
と、ヤマが答えるとルドラは笑い、笑った拍子にどこかが痛んだのだろうか、微かに顔を歪めた。
それを見たプリティヴィーは荒々しくヤマを押しのけ、手にした薬をルドラの口に押し込んだ。
親切とか丁寧とかいう形容からは程遠いプリティヴィーのそのやり方にヤマは苦笑交じりに首を横に振り、ルドラは唐突に口に流し込まれた液体にむせ返りそうになりながら改めてプリティヴィーを見る。
プリティヴィーは表情一つ変えず、
「誰がいつ、そんなに話していいと言いましたか。もう少し休んでいないといけません」
と、言った。
ルドラは興味深げにプリティヴィーを見上げ、
「地神プリティヴィー・・・」
と、呟いた。
プリティヴィーは平坦な目でルドラを見下ろしていた。
だがやがて、湧き上がる激しい感情を押し殺すように目を細めて呟く、「・・・間違えないのね」
ルドラは表情を動かさずに聞き返す、「誰と?」
プリティヴィーは答えない。
その名をルドラに聞かせる事すら、厭わしいとでも言うように。
ルドラは空中に浮かぶプリティヴィーの頑なな沈黙の重さを量るように、長いこと黙っていた。
しかしやがて、その首が小さく横に振られる。
次いで唇が何かを言おうとするかのように微かに開かれたが ―― それだけだった。
ルドラは無言で両目を閉ざし、しばらく後にアディティーが病室にやって来た時には、既に眠ってしまっていた。
それ以降、インドラがルドラの言葉や文書を一族に届けるようになったので、アーディティア神群とマルト神群の間に流れていた緊張感は多少の改善を見せた。
ルドラが一刻も早く全快し、一族の元に戻るに越した事はないと誰もが考えていたが、致命的と言うに足る傷をいくつも負っていたルドラの回復には、それから長い長い時間がかかった。
ルドラ王の回復が遅々として進まない事に、治療にあたっているのが天地両神一族だからいけないのではないか ―― 手を抜いている訳でもないのだろうが、彼等がルドラ王に対する恨みを消せず、治療に身を入れられないのは仕方のない事であろうから ―― という声すら囁かれていた。
けれどルドラ王を全快させなければならない以上、早く彼を治してこの神殿から追い出してしまいたいと考えているプリティヴィーが治療の手を抜くはずもない。
それどころかプリティヴィーはその傷の有り得ないような回復ぶりに内心驚き、これなら予測していたより早い時期での全快が見込めるかもしれないと喜んでさえいた。
普通の戦神(いくさがみ)であれば数回死んでいるような傷が、治るのに長くまとまった時間を要するのは当然なのだ。
結局、ルドラ王が自力で立ち上がって歩けるまでに回復したのは、戦の終結から季節がぐるりと一巡した後の事だった。
ルドラが歩けるようになるが早いか、インドラは足しげくアーディティア神殿を訪れては、
“龍宮殿の再建もほぼ終了したので、早々のご帰還を”
と進言していたが、ルドラはなんだかんだと理由をつけて龍宮殿に帰ろうとはしなかった。
受けた傷はまだ完全に癒えきっておらず、今後両神群がどう関わってゆくかも決定していない。
これまでの歴史を鑑みつつ、今後新たな関係を築き上げてゆく為には、ある程度の時間をかけた話し合いが必要である。
ルドラ王にも思う所があるのだろうし、今はルドラ王のしたいようにすればいい。
ルドラとアディティーはそれぞれにそう繰り返し、神群の最高神の言葉に表立って異を唱える者はいない。
しかし側で見ているアーディティア神群の神々は皆、傷がある程度癒えたルドラ王が天地両神一族の恨みの視線に晒されながら、監禁とまでは行かないものの半ば幽閉されているような今の状態に甘んじている事を訝しく思わずにはいられない。
自身に注がれる天地両神一族の鋭く冷たい視線や他の神々が投げかける不審そうな視線に気付いてるのかいないのか ―― 当のルドラは無垢の女神が住まう神殿内にある中庭に建てられた離宮に移った後、アーディティア神群に伝わる本を読んだり、訪ねて来たアディティーと長い事話し込んだりして、淡々と日を過ごしていた。
ルドラ王の逗留が長引くのに合わせて警戒が強まってゆくなか、ディアウスは周囲の言動や行動の端々に不可解な点が数多く見受けられる事実に気付き始めていた。
マルト神群の王が側にいる今、警戒をしすぎるという事はないし、神経質になるのは仕方ないでしょう。とプリティヴィーは言ったし、最初のうちはそれで納得していた。
しかし時が経つにつれ、それだけではないのではないかという予感に心が囚われる。
気のせいだろうかと何度も考え直してみたが、黒い染みのような小さな疑問は振り払っても振り払っても消えず、それはディアウスの眼前で、瞬く間に大きな暗黒の不安となる。
決定的な根拠というものは全くない。
が、周囲のピリピリとした雰囲気、殺伐とした表情と共に交わされている密談の気配、黙っていても伝わってくる激しい憤りの焔が纏う灼熱 ―― それらはただ過去の歴史から派生したものだと説明するには妙に生々しい雰囲気があり、その直感が何よりも揺ぎ無い根拠となっているのだ。
そしてその不安の最初の一点になっているのは言うまでもない、自分が意識を失っていたという数月の空白だった。
黒々とした不安は皮肉な事に、その真っ白な空間から派生するものなのだった。
その空白の数月間ずっと、自分は意識を失ったままでいたのだと、皆、そう言う。
妹は勿論、一族の者の誰に聞いてもそういう答えが返ってくるし、他の一族の誰もが同じように答える。
皆がそう言うのだから、そうであって欲しいとは思う。思うがしかし、返ってくる答えが、まるで判を押したように同じである事、答える声の奥底に微細な躊躇いというか、ぎこちなさというか ―― が漂う事が気になってならない。
まるで指先に刺さった肉眼では見えない小さな棘が淡く不快な痛みでもって、その存在を誇示するように。
今朝摘み取られたばかりの薬草を手に自室で1人、ぼんやりとそこまで考えたディアウスは手にしていた薬草を籠に戻し、小さな溜息をついた。