27 : 緋色の血
「 ―― だって私は、ここにこうしている今も、考えるのはあの方の事ばかり・・・」
どうして謝るのか、というプリティヴィーの問いかけに、ディアウスは呟くように答えた。
兄がそう告白するのを聞いたプリティヴィーの柳眉がほんの少し、ひそめられた ―― かも、しれない。
が、プリティヴィーは特に何を言う訳でもなかった。
短い間をとってから、ディアウスは続ける。
「天(そら)を創造(つく)りながら、気がつくと私は、あの方の漆黒の髪が一番映える青空の色を、あの方の深緑色の瞳に更なる威厳を添えられる夕闇の色を、あの方の乗られる神馬の翡翠色の鱗が、一番美しくさんざめく闇色を・・・などと・・・、そういう事ばかり考えて、毎日毎日、天(そら)の色を調節している。この私がここであの方の事を想いながら天を創造(つく)り直しているのは、一族に対する最大にして最悪の裏切り行為なのだろうけれど ―― それでも・・・、私は、どうしても・・・」
「・・・止められない・・・?」
と、プリティヴィーは尋ねた。
「・・・そうだな・・・」
と、ディアウスは答えた。
再び間があって、プリティヴィーは思い切るようにきつく目を閉じてから、視線をディアウスに移す。
「何故・・・何故なの?何故よりによって、あの男なの・・・?どうして彼でなければならないの・・・?」
「・・・、確かに不思議だと思う。自分でも」
「・・・自分でも分からない・・・って事?」
と、プリティヴィーが訊いた。
ディアウスは首を傾げて考える素振りを見せてから、
「・・・あの人、面白いんだ」
と、ふいに明るい声になって言った。
「・・・面白い・・・?」
「そう・・・、一緒に、寝たりするだろう?そういう時に私が ―― ほら、いつもの様に“預知夢”を見て、喚きながら飛び起きたりする」
「・・・ええ」
「そんな時、あの人・・・ルドラは絶対に目を覚まさないんだ」
「・・・目を覚まさない?そんな馬鹿な・・・」
思い切り顔をしかめて、プリティヴィーが言った。
「そう、有り得ないだろう?」
笑いながら、ディアウスは言った。
「隣で寝ている私があんな ―― あなたなら分かるだろうけれど、あんな酷い悲鳴を上げて飛び起きるんだから、それを戦神(いくさがみ)であるあの人が気付かない訳がない。
・・・でもあの人は絶対起きている事を私に悟らせないように、身動きひとつせずに寝たふりをしている ―― そういうの、冷たいと思う・・・?」
と言って、ディアウスは顔を巡らせ、プリティヴィーを見た。
プリティヴィーは頷き、頷いたプリティヴィーを見てディアウスは申し訳なさそうに顔を歪めた。
「でも ―― 私にはそれが何より有り難い。有り難くて・・・嬉しい」
「有り難い・・・?嬉しい・・・?」
と、プリティヴィーは乾いた声で繰り返す。
ディアウスは頷き、深い溜息をつき ―― 再び、小さく、謝罪の言葉を口にする。
「酷い話・・・酷い言い方・・・酷い考え方だ。こんな事を感じる自分が嫌になる。私は痛いほど分かっているのに、あなたや、他の人たちが悪い預知夢を見て泣き続ける私の辛さを少しでも早く抑えてくれようと考えながら必死で慰めたり、落ち着かせてくれようとしてくれているのを・・・、それなのに私は ―― 私は、必死になって慰められれば慰められるほど、悪い“預知夢”が本当に現実になるのだと言われているような気がして・・・、苦しくて・・・堪らなかった。苦しくて、辛くて ―― でもルドラが横で意に介さない風を装って眠っているのを見ると、大丈夫なんじゃないかって、思えるんだよ。見たものの何もかもが、ただの夢なのかもしれないと・・・そう思えて・・・ ―――― 」
プリティヴィーは茫然として、兄のその、思ってもみなかった告白を聞いていた。
悲しさではない、虚しさでもない ―― まっさらなのに妙な重苦しさに、ひたひたと心が捕らわれてゆくのを感じながら。
プリティヴィーのそんな様子を見ていたディアウスは力なく目を伏せて右手を上げ、その細い指で額を押さえるようにした。
それから再び、2人の間には長く完璧な沈黙が流れた。
ゆったりと吹きすぎる風が天水の水面をゆすり、起こった波が戯れにぶつかりあって砕け散る。
それに合わせて波間に無数に漂う天の欠片がしゃらしゃらという音をたててぶつかる微かな音だけが、途切れる事なく沈黙を満たしていた。
そこに時折、島の表面を覆う草花、親指の先程の白い花と細い木々の枝が風になぶられる音が混じる。
「・・・そうだったの」
長い、長い沈黙を破って、プリティヴィーは言った。
「・・・ごめんなさい」
額に宛がっていた手を下ろしながら、ディアウスは3度目の謝罪の言葉を口にした。
それを聞いて、プリティヴィーは泣きそうな様にも、苦笑しているようにも聞こえる声を上げ、力なく首を左右に振る。
「もう、謝らなくていいわよ。それが兄さまにとっての真実だというのならば・・・ ―― 私に言える事は何もないもの」
と、プリティヴィーは静かな声で言ってから改めてディアウスの腕をとり、行きましょう、という風に優しく引いた。
ディアウスは真っ直ぐに妹の目を見たまま、黙って頷く。
妹が誘導するまま島の中央にある城へと向かいかけたディアウスだったが、数歩歩みを進めた所で、背後に広がる景色を名残惜しむように振り返った。
今日の景色の美しさをきちんと記憶しておこうとするかのような、そんな切実な眼差しで辺りを見まわす兄の様子に思わず苦笑しながら、大丈夫よ、また明日があるから・・・と、プリティヴィーが言いかけた ―― その時だった。
ディアウスの表情が、唐突に、ぐしゃりと歪む。
信じられないものを見た、といった兄の表情に驚いたプリティヴィーが兄の視線を追いかけようとするより先に、ディアウスはプリティヴィーの手を振り払うようにして、島の端に向かって駆け出す。
それは全く、止める間もないような勢いだった。
何が起きたのか分からないながらも、プリティヴィーはとりあえずディアウスの後を追おうとした。
が、兄が駆け寄ってゆくその先 ―― つい先程、緋色に染まる風景を眺めていた時には風と草木だけしかなかった筈のその場所にふいに姿を現した人影、その人影が誰であるかを察した瞬間、プリティヴィーは愕然としてその場に立ち竦む。
ゆらりと傾ぎかけた上体を駆け寄ったディアウスが抱きつくように支え、その身体を両腕で抱きしめるようにしながら踏みとどまったルドラは、腕の中に閉じ込めたディアウスの耳元に何事かを囁き ―― それから顔を上げ、その肩越しにプリティヴィーを見た。
その鈍く光る深緑色の瞳と、腕から流れ落ちる ―― 天宙域(てんくういき)を超えてくる際、時空のひずみによって生じる鋭い空気の流れに切り裂かれたのだろう ―― 一筋の赤い血の、目にしみるような鮮やかな対比を目にしたプリティヴィーは、震える唇をきつくきつく、噛み締めた。