月に哭く

29 : ただひとつの答え

 閉ざした扉に錠をおろした後も暫く、扉に耳を押し付けるようにして外の様子を伺っていたディアウスは、背後で人が動く気配を感じて柳眉を寄せた。
 慌てて扉を離れ、幾重にもかけられた白い薄布の間を縫うようにして奥の部屋へ急いでみると、そこには包帯が巻かれた腕の様子を見るようにしながら寝台を降りようとしているルドラがいた。

「何をしているのですか、ルドラ!しばらくは休んでいなければいけません・・・!」
「そんな大袈裟にしなくても大丈夫だ」
「大袈裟などではありません、あちこち怪我をなさっているのは事実ではありませんか・・・顔色もあまり良くありませんし」
 と、ディアウスは言った。
 その不安げなディアウスの声を聞き、ルドラは苦笑する。
「確かにここへ来るために相当消耗したのは事実だが、寝込むほどのことではない。この位の体調で寝込んだ経験など、一度もないしな」
「それは・・・そうなのかもしれませんが、しかし・・・、そうだとしても、あんなことをなさってはいけません・・・」
 と最後、ディアウスは躊躇いがちに、言葉を選びながら言った。
「・・・あんなこと? ―― 何の話だ」
 と、ルドラが訊き返す。
「先程・・・私が外で一族の者たちと話をしていたとき、力を使われたでしょう・・・?あのような力の使い方をしては消耗したものも元に戻りませんし、それに・・・一族の者を今以上に警戒させることになります」
「・・・あれは俺じゃない」、とルドラは低い声で言った。
「・・・えっ?」、と今度はディアウスが訊き返す。
 いぶかしげな顔をするディアウスをもの言いたげな様子で眺めていたルドラはやがて、いや、なんでもない。と首を横に振った。
 そうしてルドラは改めて、今、目の前にいる天地両神一族の長である"ディアウス"について想いを巡らす。

 天地両神一族を治める"ディアウス"という名を引き継ぐ神は、非常に特殊な神だ。
 預知の力を有しているということだけでなく、生まれながらにして2つの神名(しんめい)を持つ神は、マルト、アーディティア、アスラの三神群に属する数多の神々の中でもディアウスだけだろう。
 現在主に使われている"天神"という神名はもちろん、預知者としてのディアウスを指す訳だが ―― その預知の力の強大さゆえに他の一族のみならず天地両神一族の者ですら(あるいは当人すら)失念しかかっている"天王"というもう一つの神名 ―― そう、それは元々、戦神(いくさがみ)の神名なのだ。
 "天王ディアウス"が戦場を駆けたという文献をルドラは読んだことはなかったが、過去にそういった力を全く持ったことのない神が戦神の神名を授けられることは有り得ないだろう・・・ ―――― 。

 いつになく厳しい表情で口を閉ざし、考え込んでしまったルドラを見上げていたディアウスは、やはり本調子ではないのかもしれない。と判断してそれ以上追及するのはやめることにし、ルドラの足元に腰を下ろしかけた ―― が、ふいに扉の向こうで人の話し声がしたのを聞きつけて再び弾かれたように立ち上がる。
 そしてルドラを背に庇うような格好で、その前に立った。
 聞こえてきた会話と人の気配がゆっくりと扉から遠ざかってゆくのを確認するまで、息を詰めるようにしていたディアウスは、再び部屋の周りに静寂が戻ったところで崩れるようにその場に膝をつく。

「・・・おい、ディアウス。大丈夫か」
 ディアウスの身体を支えるようにして、ルドラが言う。
「大丈夫か、ではありません・・・」
 と、ディアウスは呟くように言い、頭を巡らせてルドラを見た。
 そしてこれ以上黙ってはいられない、とばかりに問う、「何故、このような無謀なことを・・・?」
 そう尋ねたディアウスを、ルドラは長い間じっと眺めてから右手を伸ばし、その髪に指を触れさせた。
「そなたに会いたかったから ―― というのは、その問いの答えにならぬか」
「そんな、ふざけた事をおっしゃられては困ります・・・!ここ天地は、アーディティア神殿よりももっと、ずっと、あなたにとっては危険な場所です。そんな事は言うまでもなく、お分かりのはずで・・・ ―――― 」
「それでも」
 皆まで言わせず、ルドラはディアウスの細い髪の間に指を潜り込ませながら、噛んで含めるような口調で言う。
「俺はここに来たかった。来なければならないと思った ―― 例えどんな危険や困難があろうとも、後に何を残して来なければならなくとも、そなたの傍に行かなければと思った。
 ふざけてなどいない。それこそ、そんなことはそなたに分からない筈もないだろう」