4 : 美しい人
淡い陽だまりの中でぼんやりとしていたディアウスは、扉の叩かれる音を聞いて我に返った。
慌てて居住まいを正しながらどうぞ。と返したのを受け、部屋に入ってきたのは雨神パルジャで ―― 彼の姿を見た瞬間、ディアウスは反射的に微かな苛立ちを覚えずにはいられない。
パルジャが悪いというのではない。
ただ他の戦神(いくさがみ)の訪問は全て拒絶しているらしい妹や一族の者が、パルジャだけをこの部屋に通すという行為の裏に見え隠れしている思惑が、なんとも腹立たしいのだ。
パルジャのことは仲間として、友人として、相応に好ましいと思っているし、アーディティア神群最大の戦神(いくさがみ)一族を率いる王である彼を尊敬もしている。
しかしだからといってその好意がすぐに愛情へと転換されるものかと言うと、決してそうではなく ―― 皆、どうしてそんな簡単な事が分からないのだろうとディアウスは不思議に思う。
こんな風に特別扱いをされれば、パルジャだって誤解するだろうに・・・。
だがそんなディアウスの逡巡が杞憂であると証明しようとするかのように、パルジャはごく自然な微笑みを顔に浮かべながら彼の前に座った。
「今日は顔色がいいね、ディアウス」
「・・・、最近、身体の調子はとてもいいのだけれど、ただ、周りが・・・」
と、そこで言葉を切ったディアウスは、今パルジャが入ってきた扉を軽く睨んで見せる。
その行動を見たパルジャは笑う、「確かに最近の彼らのやり方は、幾分神経質すぎるね。他の戦神(いくさがみ)達も心配している。あれではディアウスが窒息してしまうと」
「冗談事や笑い事じゃあありません」、とディアウスは溜息をついて力なく首を振った、「目覚めてからこっち、外出が許可されたのは片手の指の数にも満たないなんて、こんなのあまりにも酷すぎます。いくらこの神殿にマルト神群のル ―― 」
「だから今日は君を連れ出しに来たんだ、ディア」、とパルジャはさり気無く、かつ素早くディアウスの言葉を遮って言った、「今日はあたたかいし、外に出ても身体に障らないだろう?」
「本当に!? ―― ・・・でも・・・、プリティヴィーがいいと言うかどうか・・・。最近本当に厳しくて、その内立ったり座ったりするのも妹の許可を取らないと駄目になるんじゃないかと思う程なのに」
「はは、じゃあそうならない為にも、体調をみつつ、少しは外に出ておかないとね ―― 実はもう、プリティヴィーの許可は取ってあるんだ。日が高い内に少しだけ、木陰を選んで歩くならいいってね。嬉しい?」
「パルジャ!それならそうと先に言ってくれればいいのに!嬉しいかなんて、聞くまでもありません、何日ぶり ―― いえ、何月ぶりのことか ―― でも・・・許可を取るのは、大変だったのではありませんか?」
「そうだな、簡単だったと言ったら嘘をつく事になる」
と、パルジャは唇の端を曲げて笑った。
「しかし君のこんな嬉しそうな顔を見られるのであれば、あの程度の困難は困難の内には入らないよ ―― さぁ行こう、ディアウス。残念ながら、そんなに長い時間が許されている訳ではないんだ」
久々に戸外に出たその日は、非常に心地のよい日だった。
プリティヴィーが数秒間目を閉じて大地の気配を読むようにした後、今日なら外に出てもいいわ。と言っただけの事はあるね。と緑の気配が色濃く立ち込める道を歩きながらパルジャは言い、それを聞いたディアウスは軽く声を上げて笑った。
「私も今、そう考えていました。あと少し寒くても、暑くても、外出するのを許してもらえなかったに違いないと」
「そうだな、或いはね」
と、パルジャは言った。
そして林の木々の合間でひっそりと水を湛えている湖の畔で足を止め、そこにディアウスを座らせる。
ゆっくりとその横に腰を下ろしながら、パルジャは尋ねた、「・・・疲れてない?」
「いえ、大丈夫です。懐かしい・・・最近は外に出ると言っても神殿の周りを散歩するくらいで、こんなに遠くに来たのは本当に久しぶりですから。
神殿にいる間中ずっと、この湖が恋しかったのです。それを知っていて、ここに連れて来てくれたのですよね」
尋ねられたパルジャはディアウスを見て微笑んだ。
「君が一番好きだった新緑の時期はとうに終わってしまったけれどね ―― ここは以前から全く変わっていない。ここだけは・・・、しかし・・・」
「・・・ビアース高原の事ですか」
と、ディアウスは静かに言った。
「そう・・・知っていたのか」
と、パルジャは溜め息混じりに言った。
「はい」
「そうか」
と、パルジャは呟く。
ディアウスもそれ以上は何も言わず、鏡のように静まり返った湖面を眺めていた。
長い間をとった後でディアウスは気を取り直すように顔を上げ、厳しい顔つきで組んだ両手を見下ろしているパルジャの腕に手をかける。
「・・・大丈夫ですよ、パルジャ。いつか全て元通りになる日が、きっと来ます ―― マニウの聖なる火に焼かれたのなら、そこにはもう悪いものは入り込めませんし、それにあそこは元々、ヴィシュヌ神の御加護の篤い土地でもありますから。
楽しみじゃありませんか?森や林や草原が出来上がってゆく様を、最初から見られるなんて・・・昔のように時々、私をあそこまで連れて行ってくれるでしょう?」
「君が望むのならいくらでも、ディアウス」
パルジャは自分の腕にかけられたディアウスの白い手を取って答え、
「ただし、兄思いの女神のお許しが頂ける限り ―― という事にならざるを得ないだろうけれどね」
と、続けて肩を竦める。
結局何を話しても、問題はそこに戻るのですね。とディアウスは小さく顔を顰め、それから笑った。
そんなディアウスと共に笑いあってから、パルジャは立ち上がる。
「さて、そろそろ神殿に戻らなければ、ディアウス」
「・・・え、もう?」
「許された時間を過ぎてしまったら、二度と外出しちゃ駄目だ!なんて言われるかもしれない。そうなったら困るだろう?」
優しく諭されて頷いたディアウスはゆっくりと立ち上がり、名残惜しげに湖を振り返って見た。
「また折を見て、連れて来て上げるよ。なるべく近い内にね」
ほっそりとした背に手を添え、パルジャは言った。
「・・・はい・・・、ありがとう、パルジャ」
答えたディアウスが湖から目を離してパルジャを見上げた刹那 ―― 木の枝の隙間から、その頬に向けて一条の光が射した。
普段は青白いディアウスの頬がその光を受けてほんのりとした朱色に染まり、木の葉を揺らす風の影響で差し込む光の角度が変わるたび、その瞳の色がゆらゆらと揺らめく。
神々しいまでの美しさの中、どこか頼りなげな雰囲気を内包しているディアウスの様子に、パルジャは心臓を握り潰されるような気がした。
息が止まり、皮膚の裏側が粟立つような感覚 ―― 愛おしさの余りがむしゃらにその身体を抱きしめて、どうか自分を愛して欲しいと懇願したくなる。
自分を選んでさえくれれば、感じているのであろう不安の全てを払拭してみせると、強く誓いたくなる。
「ディアウス、君のように美しい人はいない」
と、パルジャは咳き込むように言った。
何のてらいもない真っ直ぐな彼の言葉を受けた後、長い間彼を見上げたまま黙っていたディアウスの瞼が、すっと伏せられる。
お願いだからそれ以上は言わないで欲しいと、ディアウスが無言のまま訴えているのが聞こえる気がした。
押しまくって力ずくで手に入れられるような存在では決してない事も理解していたので、パルジャは潔く身を引き、
「さあ、帰ろう」
と、軽い口調で言った。
ディアウスはどこかホッとしたように顔を上げて頷き、それを見たパルジャは、思わず大きく溜息をついてしまいそうになる。
彼を口説くのは、風に舞う花びらを捉えようと努力する行為に似ていると思う。
空中に浮かぶ花びらをめがけて何度手を伸ばしてみても、それは寸での所で自分の手が届く範囲の少し向こうに逃げて行ってしまう。それが以前より、歯がゆくてならないパルジャだった。
嫌われたり、嫌がられたりしているのではない事は分かっていた。
だがこういう事を言うと彼はいつも必ず、こうして困った様子で俯くのだ ―― 濃い戸惑いの気配と、優しく柔らかな拒絶の気配と共に。
しかしここで焦っては元も子もないのだと、パルジャは必死で自分に言い聞かせた。
アーディティアの他の神々に比べ、明らかに自分はディアウスに近い場所にいる事を許されている。
戦が終わり、マルト神群との関わりも一応の落ち着きを見せている今、パルジャがディアウスに完全に拒絶されるのを待ち構えるようにしている存在が1人や2人などではない事を、パルジャは理解していた。
自分が今いる立場を守って周りを牽制し、ゆっくりと着実に彼の心を解きほぐし、最終的にそれを自分のものに出来なければ意味がないのだ。
他愛ない会話を交わしながら神殿に向かう道すがら、パルジャは隣を歩くディアウスがどうすれば自分を愛するようになるものだろうかと、深く思い悩むのだった。
その後もパルジャは、時間と状況とプリティヴィーの許しが得られる限り、ディアウスを外に連れ出した。
先日の外出以来、見違えるように明るい表情をするようになったディアウスの様子を見て、それまで頑なな態度を崩さなかったプリティヴィーが、兄の外出の回数を増やしたのだ。
天地両神一族がディアウスを強い監視下に置きすぎている状況を見るに見かねていたアディティー以下、他の神々の抗議の声がそれを後押ししたという要因もあったかもしれない。
無論全てが何の抵抗もなく許可されたりしたわけではなく、ディアウスが外に出ている間はルドラ王にいつも以上の監視をつけるという取り決めがなされたり、英雄神には、アーディティア神殿にやってくる数日前にその行動の予定を逐一報告するようにと警告めいた通達が送られたりはしていた。
が、それは全て裏でひっそりとやりとりされ、表面には全く現れなかった。
事情を何も知らないディアウスを外に連れ出すのは、殆どの場合がパルジャの役目であった。
パルジャ自身もそれを望んでいたし、ディアウスの記憶を消すと言う暴挙に近い行動に出た天地両神一族を責めるような目で見る他の神々にその役目を任せるのは、プリティヴィーとしても心許なかったのだ。
そんなある晴れた日の昼下がり、パルジャと散歩に出ていたディアウスは神殿の階段を上がりきる直前、ふと足を止めた。
階段の向こうから、何やら激しく言い争う声が聞こえて来たのだ。
「・・・何事だろう」
パルジャも眉を顰め、さり気なく斜め前に身体をずらしてディアウスを庇うようにした。
「プリティヴィーの声だ」
ディアウスは言い、パルジャの横をすり抜ける様にして残りの階段数段を駆け上がった。パルジャが慌ててその腕を掴んで止める。
「いけない、ディアウス・・・!」
「でも・・・、あ・・・!」
ディアウスは最後の階段の段に足をかけたそこで、凝ったように立ち止まった。
階段の上に立っていたのは ―― 今正にディアウスの立っている階段を下りて神殿を出ようとしていたのは ―― アーディティア神殿では見かけない容姿の男だった。
浅黒い肌に金の双眸、瞳と同じ色の髪を持つ男 ―― そして彼が漆黒のマントと共にその身に纏っている“気”は、戦神(いくさがみ)のそれを凝縮したようなものだった。
その雰囲気は普段アーディティア神殿にいて交流のある戦神(いくさがみ)のものとよく似ていたが、比べ物にならない程の圧倒的な威圧感があった。
突然突きつけられた“気”の圧力により、よろりと後ろに倒れかかったディアウスを、パルジャが守るように抱き締める。
逢ったことのないはずのその男は、立ちすくむディアウスとその身体を抱くパルジャを見た瞬間にぐしゃりと顔を歪めた。
「 ―― 兄さまッ!」
と、叫んだプリティヴィーがその間に割って入り、双神それぞれの守護神たちも主を守るようにそこに割り込み、剣を抜こうとする。
「やめなさい ―― やめて、お願い、やめて!!」
入り乱れる神々の間を縫うようにしてやって来たアディティーが、抜かれようとした剣の柄にしがみ付くようにしながら叫ぶ。
「パルジャ、早くディアウスを奥へ!英雄神よ、非礼はお詫びいたします、ですからどうかこの場はこのまま立ち去られますよう、どうか・・・!」
悲鳴のようなアディティーの声を聞き、パルジャは放心しているディアウスを支え、英雄神を大きく迂回するようにして奥へと急ぐ。
プリティヴィーとその守護神達は一瞬の間をおいてから、慌ててその後を追った。
震える拳を握り締め、きつく唇を噛んでいたインドラは堪えきれずに顔を上げて振り返る。
そして去ってゆこうとする一団の中央にいる天地両神一族が崇める神の名を、大声で呼んだ。