31 : 譲歩
「その水に落ちたら、助かりませんよ」
ふいに後ろから声を掛けてきた相手を、ルドラは振り向いて確認しようともせず、
「恐ろしいまでに美しい所だな、ここは」
と、呟いた。
「元々、大地(たいち)も天(そら)も全て、こういう美しい場所だったのです。それが戦神(いくさがみ)たちによって破壊されてしまったのです」
まるでルドラひとりがそれをしたとでも言うような口調でプリティヴィーは言い、空間に浮かぶ島の端から天水を覗き込んでいるルドラの隣に間をあけて立つ。
「ところで、先日より兄が天を作る仕事を再開したのは、あなたの進言によるものだと聞きましたが、それは本当ですか」
「勧めたというほどではないが、俺がここに来てからもう数十日、彼が俺に気を遣って天を作る仕事を休んでいたのは知っていたからな。俺の事は心配しなくていいから、仕事をしてくれと言っただけだ」
「部屋からは出ないように、と言いふくめられているのではありませんか」
「 ―― ん?ああ、まぁ、そういうようなことを言われたことは確かだが・・・日がな一日部屋に籠っているのは性に合わん」
肩を竦めて苦笑するルドラの返答を聞いたプリティヴィーは呆れた、という様子を隠そうともせずに首を横に振る。
「随分と余裕ですね。皆があなたに手を出さなかったのは、兄が側にいたからだというのに」
「そうだな。それと、そなたのお陰なのだろう」
ルドラは答えて首を巡らせ、さも嫌そうに顔を歪めたままのプリティヴィーを見た。
「私の?何を根拠に、そのような」
「違うのか?」
「・・・この下に見える天水は」、とプリティヴィーは聞かれた問いを無視して言った、「ただの水ではありません。比重と圧力が一定ではない、非常に危険な“水”です。一度入り込んだら、簡単には抜け出せない」
「・・・だから?」
「この水の中で圧力や重力を調整して動けるのは、この地への立ち入りを許された天地両神一族の中でも天を作る兄と、そしてそれを助けることが許されたこの私しかいません。兄は今、天水の深部で天を作る作業に集中しているでしょうから、多少の事があっても気付かない。
つまり私があなたを今ここから突き落とせば、あなたを助ける者は誰もいないという事になります ―― 他の者がそれをしても、助けてやるほど私は親切ではありませんしね。こんな場所までふらふらと出て来て、ぼんやりとあたりの景色を鑑賞したりする行動自体が命を捨てるようなものです」
「なるほど、それは怖いな。気をつけよう」
「・・・私の話を信じていないのですね」、とプリティヴィーは憮然として言った。
「そういう訳ではないが・・・だが、そなたにはそのような事は絶対に出来まい」、とルドラは言い、微かに笑った。
「・・・随分と甘く見られたものですね、私も」
「そういう意味でもなく、そなたは兄であるディアウスを悲しませることは絶対に出来ないし、しないだろうという意味で言っているのだ」
と、ルドラは言った。
「この地にやって来てから俺の周りがこうも静かなのは、ディアウスが俺の側にいたのも影響しているだろうとは思う。だがそなたが他の者を止める努力をしていなければ、ここまで静かにはいられなかったのもまた、事実だろう。
・・・相当の手数をかけたのだろう。礼を言う」
プリティヴィーは面白くなさそうな顔つきで天水の水面を睨むように見下ろしたまま答えようとしなかったが、やがて、手にしていた包みをルドラに向かって差し出す。
「・・・これは?」
「兄が天水から上がってきたら、渡してください。着替えと、ぬれた身体を拭く布が入っています」
と、プリティヴィーは言った。
彼女の言葉に驚いたルドラは、改めるようにまじまじと眺めた。
「断っておきますが、あなたやあなたの一族を心から許したり、認めたりした訳ではありませんから、誤解なきよう」
中くらいの沈黙の果て、神経質そうに咳払いをしてプリティヴィーは言った。
「しかし兄に会うためにこんな所にまで来てしまうあなたに、何を言っても無駄でしょうし ―― 私が何をしようと、兄の決心や想いを変えることは出来ないようですから」
「 ―― 様子見、という訳か」
「そうですね。無垢の女神アディティーや死者の王ヤマの“今回のルドラ王は今までの“ルドラ王”とは違う”という言葉が真実かどうか確認くらいはしてみようと思ったのです。その間私は、全力で自分の一族の者たちを説き伏せるなり何なりして、あなたに手出しをさせないように努力しようと思います。
その代わりこの先、もし兄の身に何らかの危険が及ぶような事があったら、私はこの命をかけてでも兄を守ります。たとえどんな手段を使っても、他人にどんなに罵られようとも」
一気にそう言いきったプリティヴィーは、ともすれば初めてルドラを真正面から見据え、
「誓って下さい。今後何をおいても、兄を守ると。おざなりの言葉だけでなく、全身全霊を込めて兄の身の安全だけは守ると ―― それを誓えないというのなら、どうかこのままお帰り下さい」
と、震えるような激情を込めた声で言った。
ルドラはそんなプリティヴィーの視線を暫くの間、揺るぎなく見つめてからふと両目をきつく閉ざした。
だがそれはそう長い間ではなく、すぐにルドラは視線を上げてプリティヴィーを見下ろしてはっきりと頷く。
「誓う。何があろうと、ディアウスだけは守る」
ルドラの返答を聞いたプリティヴィーはそれ以上はもう何も言わずにきびすを返し、城へと足を向けた。
プリティヴィーの後姿が木立の向こうに消えるのを無言で見送ってから、ルドラは再び足元に広がる天水を見下ろす。
いつの間にか暮れかかった天の色を受け、天水の水面は赤く染まっていた。
不吉さすら覚えるようなその透明に赤い天水の奥底には、微かに、小さな、影が揺らいでいるのが見えた気がした。
その揺らぎが何なのか、どんなに目を凝らしてみても分からない。
ディアウスの姿なのかもしれなかったし、ただの目の錯覚なのかもしれなかった。
暫くの間その影に目を凝らしていたルドラだったが、やがて諦めるように首を横に振る。
影の正体も、そしてこれから、ここから始まる新しくよりよい世界が向かうべき方向性も、今はまだ何も見えない。
自分とディアウスの運命へと続く道が、どんな色に染まってゆくのかも、また・・・ ―――― 。
ルドラは首を振ってからゆっくりとその場に腰を下ろし、かの愛しい人が目の前に姿を現す瞬間を、息を詰めるようにして待った。