34 : 凶兆
その部屋は、ただひたすらに平坦な沈黙で満たされていた。
重苦しいわけではない。
投げやりなわけでもない。
諦めの気配に埋もれているわけでもない。
その沈黙には、なんの取りかかりもなかった。
気が遠くなるほどに凪いだ沈黙は、ここで既にありとあらゆる議論が語り尽くされた果てであることを示している。
「予定に変更は」
部屋の中央部に座す四天王のひとり、アガスティアが平坦な声で問う。
「今のところは、特に」
アガスティア同様の平坦な声で、ミトラが答える。
「・・・プリシュニーさまはどうなさっておられる?」
と、アガスティアは部屋の奥に座るインドラに顔を向け、訊ねる。
だがインドラは黙ったまま、何も答えようとしない。
その代わりに側に控えていたインドラの腹心の部下が平坦な声で説明する。
「ここのところ、自室から一歩も出ようとなさらないということです。侍女にもほとんど顔をお見せにならない、と」
「・・・大丈夫なのか」
その説明を聞いて少し不安そうに、ヴァルナがアガスティアを見上げる。
「さぁ、どうかしらね ―― でも何はともあれ、彼女がこの城を捨てることはあり得ないわ」
「この城と ―― 我々を?」
「そうよ」
深く頷いたアガスティアが、きっぱりと立ち上がり、
「英雄神 ―― 覚悟のほどは?」
と、言った。
「・・・私が怖じ気ついているとでも?」
と、そこで顔を上げたインドラが、ふっと顔を歪めて言った。
「そうではないけれど ―― 迷う気持ちは、あなたが一番大きいだろうと思うから」
「 ―― 今更だ」
と、インドラは顔に浮かべていた微妙な表情を笑いのようなものに変えて、立ち上がる。
インドラが纏っているマントが、床の上で重い衣擦れの音を立てた。
「賽は既に投げられている。今更後戻りは出来ぬし ―― するつもりもない」
「当然だっ」
と、怒鳴るように言いって激しく床を拳で叩いたのは、いつの代も気の短いタパスだ。
神名(しんめい)を受けてまだ間もないタパスの、不遜ともいえる物言いをインドラは咎めなかった。
が、濃さを増した金の双眸で、タパスを見下ろしたインドラは、
「“当然”、か?」
と、タパスの言葉を繰り返す。
一瞬ぐっと息を呑むようにしたタパスだったが、気を取り直すように頭を振りあげて叫ぶ、「元々あいつらとは合い入れない ―― アスラがいなくなろうがどうなろうが、変わることなど何もない!!王が誤った道に進まれているのを引き戻すのはルドラ一族の戦神(いくさがみ)として当然のことだ・・・!!」
「威勢のいいことだ。そうだな、そこまではいい ―― だがなタパス。お前、その先のことを考えているか」
一切表情を動かさず、インドラが言った。
「・・・その、先のこと・・・?」
訝しげに顔をしかめ、タパスが訊き返した。
「そう、その先 ―― タパスだけじゃない、この場にいる全ての者に言っておきたい、王が我々を見捨てた場合。その先の覚悟はあるのか、と」
「・・・、・・・ ―――――― 」
そのインドラの問いかけに、誰も、何も言わなかった ―― 言えなかった。
幾度も話し合いを重ね、いろいろな議論がされたが、誰もが ―― 多くの年月を重ねた老齢の戦神たちですら ―― その最終手段は決して口にしなかった。
若い戦神たちは気付かなかっただろう。
ルドラ王が一族を見捨てるなど、考えてもみなかったに違いない。
だが幾人かの戦神は確実に“その可能性”について考えていることを、インドラは知っていた。
「今代のルドラ王が我々を見捨て、アーディティアを・・・天神を選ぶのならば ―― あの王には今一度、輪廻の輪に戻っていただく」
低いがしっかりとした声で、インドラは言った。
「ルドラ一族の戦神として生を受け幾星霜・・・寿命の残ったルドラ王を手に掛けるのは私も初めてであるし、そんなことにならぬよう祈るばかりだが ―― その覚悟だけはしておくことだ」
そう言ったインドラは重い足音と共に、部屋を出ていった。
後には再び、のっぺりとしたとりかかりのない沈黙だけが残った。
カサリ、と背後で微かな物音がした気がして、ディアウスは視線を背後に流した。
「・・・どうかなさいましたか?」
影のようにディアウスに付き添っている双神の弟が心配そうにディアウスの顔を覗き込み、兄は厳しい視線で辺りを見回す。
「いや・・・、何でもない」
ゆったりとした風が木の葉を揺らすのを眩しそうに見上げながら、ディアウスは首を振った。
「天地で少し無理をしすぎているのではありませんか?あの王はいつも後先考えず、ディアウスさまをあちこち連れまわしていますし・・・お疲れになるのでしょう」
隠しきれない嫌悪感をにじませた口調でナパートが言い、その横でアパームもまた、苦虫を噛み潰したような顔をしている。
そんな双子の様子を横目で見たディアウスは、思わずため息をついた。
「・・・ルドラ王がどれほど私を気遣ってくれているか、お前たちは傍で見て知っているくせに」
言ってみたところでどうなる訳でもないと分かっているものの黙ってはいられず、ディアウスは振り返って双子を真っ直ぐに見、
「・・・体調は全く問題ない。大戦の頃に比べたら格段に調子はいいよ、正に雲泥の差と言ってもいいほど ―― と、いうのはもちろん、お前たちには分かっているのだろうけれどね、本当は」
と、言った。
そしてそれから微かに苦みが入った微笑みを浮かべながら身を屈め、足元に群生している薬草の茂みへと手を伸ばした。