月に哭く

36 : 愚かな選択

 逃げてください、と叫ぶのと同時に、双神が腰に下げていた剣を抜いた。
 インドラは眉筋ひとつ動かさず、剣を手にした右手を無造作に横に払った。
 ごく軽い動作だったが、その剣を受けたナパートが大きくよろける。

「ナパート!」
「ディアウスさま・・・!」
 タパスが繰り出した剣を鋭い金属音と共に受け止めながら、アパームが叫ぶ。
「ここは私たちがくいとめますから、ディアウスさまは神殿へ!」
「でも・・・!」
 自分がこの場に残ることは守護神たちを追いつめることにしかならない、それは分かる。
 だがマルト神群の戦神(いくさがみ)として名高い英雄神と四天王に、アパームとナパートが敵うとは到底思えなかった。
「早く、ディアウスさま ―― 急いで、助けを・・・!!」
 よろけた体勢をたて直しながら、ナパートも叫ぶ。
 その言葉がディアウスとこの場から逃がすためのものであるのは分かっていたがしかし、ディアウスはきつく唇を噛んでから思い切るように身を返し、アーディティア神殿へと走りだす。
 一刻も早く、誰かを呼んでこなければ ―― それだけが、双神を助けることになる。
 そうは思うが、天地両神一族の薬草園からアーディティア神殿の敷地に入るにはそれなりの距離があった。
 普段であれば身体の弱いディアウスであってもそう辛くない距離ではあるのだが、この状況下においてはまるで永遠にも似た隔たりがあるように思える。

 薬草園からまっすぐに延びた大通りを転がるような勢いでしばらく走ってから、ディアウスはわき道に入った。
 わき道というより獣道というのに近いが、神殿まで多少の近道になる。
 それにもし ―― 考えたくもない可能性であったが ―― インドラたちが追いかけてきた場合、大通りにいては目立ちすぎる。
 この道の先には薬草園しかなく、天地両神一族以外の一族の者は、ほとんど通らないのだ。
 光沢のある白い衣装が汚れ、木枝に引っかかって破れるのもかまわず、ディアウスはアーディティア神殿へとひた走る。
 遠くに見えていた神殿の姿が大きくなり、あともう少し、とディアウスが思った、その時 ――――
「以外とやりますね」
 と、後ろから声がかかった。
 弾かれるようにディアウスが振り向いたそこに、インドラとタパスが立っていた。
 ぜいぜいと息を乱しているディアウスとは対照的に、2人は息を乱すどころか服装のひとつも乱していない。
 薄く血の匂いがする気がして、ディアウスは泣きたくなる。
「・・・、何故なのです・・・ ―― 何故あなたがたは、そんなに・・・」
 震えるディアウスの唇から、問うたところで意味のない言葉がこぼれ落ちる。
 タパスは馬鹿にするように笑ったが、インドラは薬草園で顔を合わせた時と全く変わらない表情で答える。
「天地両神一族の一の神であるそなたにはもう、分かっているはず ―― 我らルドラ一族と天地両神一族はどうあっても相入れぬ」
「・・・っ、あなた方が思うほど私たちに力などない、何故分からないのです!?いいえ、分からないのではなく、あなた方は分かろうとしていない ―― 何故なのです、何故・・・!」
「・・・力のあるなしという問題でもないのだ ―― それは分かっている。後戻りが出来ないだけなのだ、と」
「・・・え、英雄神・・・ ―――― 」
 喘ぐように、ディアウスはその名を呼んだ。

 英雄神の視線に滲む、懊悩の色。
 表面的には平坦な口調の底に漂う、悲痛な気配。
 それらがディアウスの胸を強く打った。

 分かっているのだ。英雄神はこの行為がいかに無意味かつ愚かしい行為であるか、分かっている。
 それでも一族の意志に背けない、いや、背くことを考えられない、考えないのだ。
 そこに天地両神一族への忌避の思いがあるのも事実だろう。英雄神はこれまでも天地両神一族の者に対して、あからさまな ―― 例えば今一緒にいるタパスがそうであるように ―― 忌避の感情を見せることはなかったが、決して深く関わろうともしなかったのだから。
 しかしそれでも、こんな戦いは間違いであると思っている。思っているのに、止まることが出来ないでいるのだ。

「・・・無駄話はそこまでだ」
 胸を詰まらせて黙ってしまったディアウスに向かって、タパスが言った。
「お前が死ねば、お前が王にかけた呪縛は解けるだろう ―― 死んで罪を償え、汚らわしい預知者の王め・・・!」
 吐き捨てるように叫ぶのと同時にタパスが一歩を踏み出し、それを合図にディアウスが身を翻す。
 振り下ろされる剣の刃風を間一髪のところで避け、再び神殿へと走り出す。

 伸びてきたタパスの手に、荒々しく首の後ろを掴まれ、引き寄せられる。
 倒れそうになるのを何とか堪えたディアウスが、タパスの小指の両脇に爪をたてる。
 タパスが一瞬怯んだ隙をみて、ディアウスはその強靱な身体を突き飛ばす。
 呪詛の呻きを漏らしたタパスが、ディアウスが纏う服の裾を踏みつける。
 力任せに踏まれた布を、ディアウスが渾身の力を込めて引く。
 既にボロボロになっていた布が、悲鳴のような音を立てて裂ける。

 布が裂けた衝動でよろけかけた動きを消せないそのままに、再度神殿へと走りだそうとしたディアウスはそこで、どん、と何かに正面からぶつかった。
 見上げると神殿へと向かう道に回り込んでいたインドラが、間近でディアウスを見下ろしていた。
 さあっと、ディアウスの顔から血の気が引いてゆく。

「ここまでだ、天神ディアウス」

 やはり何の表情も顔に浮かべないまま、インドラが低く低く、言った。
 そうして振り上げられたインドラの大剣の刃が、木漏れ日を受けてきらめくのを、ディアウスは他人事のように眺めていた。
 綺麗だとすら、思ったかも知れない。
 翳された剣が降りてくるのすらゆっくりとして見え、そこに殺意があることすら、信じられない気がした。
 だがそれはあくまでもディアウスの混乱した意識下でのことだった。

 ひゅっ、と風を切る音がして、インドラが電光石火の勢いで半身を引く。
 空間を裂くように飛んできた短剣が最後、木の幹に突き刺さって震えた。

 短剣を投げたのは血にまみれ、支え合うようにして立つ水の子 ―― アパームとナパートの兄弟だった。
 掴み上げていたディアウスの身体を地面に突き飛ばし、インドラが手にした大剣をその胸めがけて振り下ろす。
 憤怒に顔を歪めたタパスが現れた双神へと足を向けたが、双子はその刃の隙を見るように身を屈め、インドラへと突進する。
 そして双子はそのまま、折り重なるようにインドラの大剣とディアウスの身体の間に身体を投げ出した。

「やめて ―― やめて!お願い、殺さないで ―― やめて・・・!!!」

 耳元で双子のどちらのものとも判断の付かない断末魔の声を聞きながら、ディアウスが激しく泣き叫んだ。