月に哭く

37 : 出口のない部屋

 殴られたような衝撃を感じて、ルドラは目を開けた。
 素早く身体を起こし、同時に常に傍らに置いてある剣を引き抜く。

 しかし、周りには誰もいなかった。
 部屋はマルト神群の城である龍宮殿特有のざらりとした薄暗い空気に満ちており ―― 城を包む空気の質が晴れた日でもどこか暗いのは、悪魔ヴリトラを倒して城を再建した後も何ら変わらなかった ―― 人影ひとつない。
 ただ、酷い頭痛がしていた。正に頭を内側から殴られているような頭痛だ。
 唐突に身体を起こしたことで襲うようにわき起こる頭痛にルドラは顔をしかめ、再びずるずると寝台に身体を横たえる。
 こんなに酷い頭痛は初めてだ、と両目を閉ざしながらルドラは考え ―― そこではっと目を開けた。

 ルドラがいるのは自室ではなく、内外共に以前と同様に作られた城の最上階 ―― 昔から“塔の部屋”と呼ばれている部屋だった。
 何故自分は、こんなところで寝ているのだろう?
 久しぶりに帰った龍宮殿で繰り返される不毛な会議の果て、仕切り直しにと軽い食事と短い休憩をとった。
 そこまでははっきりと覚えていたルドラだったが、その後のことが全く思い出せない。
 部屋に入って寝台に身体を横たえた記憶すらなかった。

 何かがおかしい、とルドラは剣を手に身体を起こす。
 動くのと同時に強い頭痛に襲われたが、気力でねじ伏せて立ち上がる。
 そしてそのまま部屋を出ようとして、ルドラは更におかしな事実に直面した。
 扉に鍵がかけられているのだ。いや、鍵だけではなく、扉には結界が張られていた。

「おい!誰かいないか!」
 と、ルドラは叫んだ。
 返事はなかったが、扉の向こうにはうっすらと、複数の人の気配がした。
「なにを考えているのだ、ここを開けろ!今すぐ!!」
 再びルドラは叫んだが、やはり返答はない。
 足早に部屋にとって返し、小さな窓から外を確認してみると空はまだ明るかったが、太陽は真上からだいぶ傾いている。
 記憶が途切れてから、少なくとも1刻ほどは経っていそうだった。
 ルドラは苛々と舌打ちをして、顔をしかめる ―― そう、この部屋はルドラにとって、あまり気持ちのいい記憶を呼び起こす場所ではなかった。
 反抗的だった昔 ―― 幼い頃、無茶なことばかりするルドラは度々ここに閉じこめられた。
 細い塔の最上階に無理矢理のように作られたその部屋は錐のような円錐型をしており、傾斜する壁に開けられたいくつかの窓は全てはめ殺しになっている。
 内にも外にも取りかかりはなく、神馬を呼んだとしても抜け出すことが困難な部屋だ。
 先の大戦で命を落としたタールクシアとルドラであれば力を合わせてなんとか脱出も可能であったかもしれないが、今現在ルドラが2代目タールクシアとして調教している真っ最中の神馬ではここから抜け出すのは無理だろうと思われた。
 消えない頭痛と共に押さえようもなく沸き起こる嫌な予感 ―― ルドラはきつく唇を噛み、再び扉へと顔を向ける。
 そして叫ぶ、「開けぬというのなら、扉を壊してでも外に出る!扉を開けよ!!」
 それでも返答がないのを確認してから、ルドラは胸の前に翳した両手に貯めた“気”を扉に放った。
 と同時に扉に素早く駆け寄り、振り上げた右足で思い切り扉の中央部を蹴る。
 ルドラの放った“気”にはなんとか持ちこたえた扉と結界だったが、続く蹴りには耐えられなかった。
 びりっと空気を震わせるように結界が破れ、次いで悲鳴のような音を立てて蝶番が弾けとぶ。
 外に飛び出したルドラの前には、ずらりと戦神(いくさがみ)たちが並んでいた。

 彼らが皆、一片の隙もなく鎧を着込んでいるのを見たルドラの目に、激しい怒りの炎が燃え上がった。

「お目覚めになられたのですね」
 最後の戦神を地面に沈めたのとほぼ同時に背後からかけられた声に、ルドラは鋭く振り返る。
 いつから見ていたのか ―― ルドラが振り返ったそこ、廊下の隅にひっそりと立っていたのは、一族の母、プリシュニーだった。
 この状況にプリシュニーがどういった反応をみせるものか判断がつかず、ルドラは黙ってプリシュニーの様子を窺う。
 そんなルドラの探るような視線に気づいているのかいないのか、プリシュニーは床に這う戦神をひととおり眺め回してから、顔を上げる。
「天地両神一族には感謝しなければいけない、とインドラが言っていました」
「・・・何の話をしている」
「あなたほど毒や薬が効かない人もいませんもの。あの一族が作る強力な薬をくすねなければ、とても王をこんなに長い間人事不省に陥らせることは出来なかったでしょうから」
 感情の全てをどこかに破棄して来てしまったかのようにな口調で、プリシュニーは言った。
「 ―― っ、インドラはどこにいる!?」
「四天王たちを連れて、アーディティア神殿へ向かいました ―― お待ちください、もう間に合いはしません!!」
 プリシュニーの返答を耳にした瞬間に顔色を失わせて廊下を駆けだそうとしたルドラの腕に、プリシュニーはそれまでの平坦な様子をかなぐり捨てて取り縋り、叫んだ。
「あなたには最初からお分かりだったはずです、我らがアーディティア・・・いいえ、天地両神一族とやり直すことなど、絶対に不可能であることを!天神を殺そうが生かそうが、それは変わらない ―― それでもあれを殺すしかない考えてしまうところまで彼らを追い込んだのはルドラ、あなたです!!」
「離せ、プリシュニー!!」
「いいえ、いいえ!!」
 殆ど振り回されるように乱暴に扱われても、プリシュニーは掴んだルドラの腕を決して離さない。そこには崖から落ちる寸前の者が一本の蔦に必死ですがりつくような、文字通り血気迫る必死さがあった。
「お願いですから行かないで下さい、あなたの存在が一族にとってどういうものか ―― お分かりでしょう!?行けばあなたは絶対に後悔なさいます、ルドラ、ルドラ、王よ、どうか、どうか ―― っ、・・・ルドラ・・・!!」
 最後、引きちぎられるような勢いで突き飛ばされ、悲鳴と共に床に倒れたプリシュニーを振り返って見ることもせず、ルドラは廊下を走り去ってゆく。
 その後ろ姿があっと言う間に廊下の向こうに小さくなってゆくのを、プリシュニーは呆然と見ていた。
 ルドラの姿が見えなくなった後も長いこと、プリシュニーは打ちつけられた壁にもたれかかるように座っていたが ―― やがてその唇が激しく震え出す。
 声にならない声と共に上げた両手で顔を覆ったプリシュニーはそのまま、崩れるように廊下に突っ伏した。