38 : 最後の選択
龍宮殿を飛び出し、呼び出したタールクシアに飛び乗ったルドラは矢のような勢いでアーディティア神殿へ向かった。
ストレージュ河を越え、ビアース高原を臨むビアース河のきわ、アディティーの張った結界ギリギリのところで布陣するマルト神群の軍隊を見た瞬間、血の気が一気に引くような感覚を、ルドラは覚えた。
そこまでのルドラの脳裏にはただひたすら、出所がはっきりとしない焦りと怒りが複雑に絡み合った感情で埋め尽くされていた。
が、自分の意志を無視して軍を動かした一族の“気”が自分がその場に来ただけで一気に高まるのを目の当たりにし ―― ぞっとする。
そしてそこで初めて、今更ながらに、ルドラは先ほどプリシュニーが口にした言葉の意味がどれだけ重いものであったかを知った。
ここに来た自分がどんな選択を迫られることになるのか。
ルドラはこの瞬間になるまで、まるで考えていなかったのだ。
ここで自分が一族の前に降り立ったら、その瞬間にアーディティア神群は終りだ。それは火を見るよりも明らかだった。ここまで荒ぶったルドラ一族の戦神の“気”はもう、自分の一存だけでは止められない。いや、止めるどころか燃え盛る火に油の筋道をつけてやる行為にしかならない。
むろんその筋道の行く先はアーディティア神群、更に言えば天地両神一族の王、ディアウスに向かうだろう ―― ディアウスが生きていれば。
先日別れた際、ルドラはディアウスに次に来るときにはビアース高原まで連れていってやる、と言った。
ディアウスは嬉しそうに口元を綻ばせ、気候も落ち着いているしプリティヴィーも許してくれると思う、芽吹きの時期だから珍しい薬草を探せるかもしれないし、と答えた。
会話の間に絡めていたディアウスの細い指先の染み入るような暖かさを、まだ覚えている。
「・・・ディアウス、・・・ ―――― 」
と、ルドラは呟く。無意識のうちに。
彼は生きているのだろうか。
無事でいるのだろうか。
もう間に合いはしない、とプリシュニーは断言した。
それをルドラは、はっきりと否定は出来なかった。
最近のディアウスにはいつも、どんな状況でも護衛がついているのは知っている。
が、たとえ何十人の護衛がつこうと、それが天地両神一族の者ではインドラ一人にも対抗しようはないだろう。
アーディティアの戦神(いくさがみ)がついていたとしても、本気になったルドラ一族の戦神に太刀打ち出来るかどうか微妙なところだ・・・ ――――
と、そこでタールクシアが不安げに小さくいななき、前足で空をかいた。
それを合図とするように、ルドラ一族が一斉に声を上げるのが聞こえてくる。
雲間に隠れたルドラの姿を認めないまでも、王が近くまで来ていることを、彼らは感じ取っているのだ ―― その歓声に追い立てられるように、ルドラは反射的に馬首を返す。
とりあえずディアウスの生死と今の状況を確認しなければならない。
それを確認しない限り、対策のたてようがない ―― 一族に背を向けて神馬を駆りながらも、ルドラにはその自分の思考と行動が正しいのか間違っているのか、さっぱり分からなかった。
マルト神群が布陣しているビアース高原を大きく迂回してアーディティア神群の領地に降り立ったルドラは、あっと言う間もなく武装したアーディティアの戦神たちに取り囲まれてしまった。
武器をつきつけられることはなかったものの、その一歩手前の雰囲気がそこにはあった。
ルドラは一切逆らわなかったが、ルドラ来訪の一報を受けて駆けつけてきた死者の王ヤマの姿を見た瞬間にその表情が崩れる。
ヤマの表情は暗く厳しく、何も聞かないまでも状況が最悪なものになっていることが知れた。
腹の底がひやりと冷えてゆくのを感じながら、それでも現状を把握しない訳にはゆかないルドラが口を開く。が、ルドラが声を発することは叶わなかった。
戦神たちのあとを追うように、アディティーたちが駆けつけてきたのだ。
「ルドラ王、どうして・・・」
転がるように走ってきたアディティーが、ルドラの腕に取り縋るようにして囁く。
「何があった ―― ディアウスは。無事か」
と、ルドラが訊いたのに、
「無事じゃないわよっ!!」
と、それより更に遅れてやってきたプリティヴィーが ―― 泣き腫らした目をしたプリティヴィーが ―― 噛みつくような口調で叫んだ。
「“水の子”が殺されたわ、兄さまを守って ―― あと少しでも遅かったら兄さまの命もなかった・・・!!」
「 ―― ・・・、っ・・・!」
「あんたは ―― あんたは何をしてたのよっ!今更のこのこやってきて・・・守るって約束したじゃない!私にはっきり言ったじゃない!何があっても守るって、約束したじゃないの・・・!!」
そこまでを叫んだプリティヴィーが、その場に崩れ落ちるようにしゃがみこんで泣き出す。
倒れ伏す主を両脇から抱き込むように支えるクシェートラとヴァストーシュの両目も赤く腫れ、彼らの纏う天地両神一族の目印にもなっている白い衣装には、生々しい血の跡が残っていた。
ルドラは何も言えなかった。
プリティヴィーがどれほど兄を愛しているか、そして天地両神それぞれの守護神たちがどれほど仲がよかったか、ルドラはもちろん見て知っていた。
ともすれば震え出しそうになる身体全体に力を込め、強く両の拳を握ってから、ルドラはアディティーを見下ろす。
アディティー、と名前を呼ばれた瞬間、アーディティア神群の最高神はびくりと身体を強ばらせた。
恐る恐る、といった様子で顔を上げたアディティーの顔は、いっそ透き通るのではないかというほど、蒼白だった。
「 ―― アディティー、そなたに頼みがある」
酷くゆっくりとした口調で、ルドラは言った。