月に哭く

39 : 不毛な戦

 名を呼ばれたアディティーは、小さく首を横に振った。

 それは言わないでくれ、という意味だったかも知れないし、そんなことをしてはいけない、という意味だったかも知れない ―― だがルドラは構わず、一気に続ける、「俺は以前使っていたそなたの神殿裏にある別邸に籠もる。そなたはその周りに結界を張れ。俺の“気”が極力外部に漏れないように」
「・・・っ、いけません ―― いけません・・・!」
 がくがくと身体を震わせながら、アディティーが喘ぐように言った。
 それを聞いたルドラは、薄い笑いを顔に浮かべた。
「そのようなことを言っていいのか?俺の気が変わってここを出てビアース高原に布陣する我が一族の元に走れば、アーディティアの者は誰一人として、明日の日の出を拝むことは出来ぬぞ」
 ルドラの言葉を聞いたアーディティアの戦神(いくさがみ)たちが一斉に武器を構え直し、アディティーは再び言葉に詰まって黙り込む。

 ルドラの言葉が意味することを、アディティーはもちろん、よく分かっていた。
 ルドラ神群と肩を並べて戦ったことで以前よりは有効な戦術を身につけたとはいえ、その能力の差は未だ歴然としており ―― 正面から戦って勝てる相手では決してないことも。
 しかし、それでも、ルドラのしようとしていることの重大さを思うと、アディティーは躊躇わずにいられなかった。
 何とかならないのか、何か方法はないのか、とアディティーは必死で考えた。だがこれまでの経緯を考えれば、これ以上の話し合いが有効であるとは考えられなかった。
 ルドラの身を盾に取って交渉しようとしても、ルドラ一族には通じないだろう ―― 明らかにルドラ一族は、最後の賭に出ているのだ。

「そなたはそなたの一族のことだけを考えていればよい。我が一族のことは ―― あれは・・・あれはもう、駄目だ」
 と、ルドラは最後呻くような声で言い、それから首を回して自分よりも一歩下がった場所に立っていたヤマの方へと向き直る。
「ただし、この身はここに幽閉状態においても、戦いの指揮は全てこの俺がとる ―― そなたにはその指示に基づいて軍を動かしてもらう、死者の王」
 ルドラは言い、上げた視線で死者の王ヤマを見据えた。
 元からルドラを見ていたヤマの視線とルドラの視線が、間近で、鋭く、深く、絡んだ。
 それはほんの一瞬のことだった。が、刹那、ヤマの気配が一種異様な燃え立ちかたをするのを、そこにいる誰もが感じた ―― そう、ヤマもかつては、マルト神群の戦神として戦場を駈けた者であったのだと今更ながら腑に落ちてくるような、それはそんな光景だった。
「どんな細かいことも、全て俺の指示に従うように ―― マルト神群の指揮はインドラがとっている。お前には分かるだろうが、奴は俺の戦術の全てを知っていて、その裏をかくようなやり方も考えているだろう。俺が戦場で直接指示を出せない分、少しでも隙を見せたり統率が乱れることがあればそこで全てが終る」
 一瞬の間を置いて、ヤマが小さく頷いた。
 そしてやはり一瞬、強く両目を閉ざしてから、
「アディティーさま。ルドラ王を神殿へ ―― 我々は出陣の用意を」
 と、きっぱりとした口調で言った。

 それははっきりとした意味も目的もない ―― 実に不毛な戦だった。
 王の“気”を失い、精彩には欠けるものの技巧にだけは優れた軍と、軍としての完成度は限りなく低いものの技を凝らした戦術を駆使する軍のぶつかり合い ―― どこをどう切り取って見ても、ちぐはくであった。

 ルドラは以前ヴリトラとの一騎打ちで大怪我を負った際に籠もっていた無垢の女神の神殿裏にある別邸に引きこもり、日に何度もやってくる使者から戦の状況を聞き、それに対して事細かに指示を出す。
 だが別邸からは一歩も外へ出ようとはせず、やってくる使者とアディティーにしか会おうとしなかった。

「戦線は徐々に後退していっている ―― 恐らく今夜中に、ルドラ軍はビアース河の向こうに軍を引くだろう」

 久しぶりにアーディティア神殿に戻ってきたヤマが、言った。
 ルドラは神殿の窓から外を眺めたまま、答えない。
 ただ小さく頷くだけ頷いたように、ヤマには見えた。
 少しの間、沈黙が流れ、ルドラが小さく、とある谷の名を呟く。
 それはビアース河の河岸にある、渓谷の名であった ―― そう、それはかつてアーディティア神群がアスラ神群と戦って存亡の危機にさらされ、その後マルト神群の力を借りてアスラ神群を退けた地だ。
 その場所が再び決戦の地になることは皮肉な偶然か、それともインドラの言葉にしないルドラへの想いなのか ―― おそらくは後者であろうと、ヤマは思っていた。
 皆まで言わないまでもルドラも同様に考えていることが、ルドラの今の呟きからも察せられた。
 それにヤマがここに姿を現したこと、それが戦が最終局面に入っていて、このままでいいのかどうなのか、ヤマ自身がルドラの意志を確認するためにここまで来たのだ、ということももちろん、言葉にしないまでも伝わっている事実であった。

「・・・ディアウスはまだあのまま?」
 重苦しい沈黙に耐えかね、ヤマが訊く。
「・・・ああ ―― 今朝の時点では未だ目覚めていないと聞いた。怪我は大きなものではないし、命に関わるような状態ではないという話だが」
 ヤマに背中を向けたまま、ルドラが答える。
「会いに行っていないのか?一度も?」
 と、ヤマが訊いたのに、ルドラはそこで初めてぐるりと振り返り、苦笑する。
「どの面下げて会いに行けるんだ、家族のようにしていた守護神を文字通り彼の目の前で殺させた元凶であるこの俺が」
「・・・しかし・・・、ディアウスの様子を知らせてきているのはプリティヴィーなんだろう?姿を見せても邪険にはしないと思うが」
「それはそうかもしれないが、ことが落ち着くまでは俺はここから極力動かない方がいい ―― アディティーの力で俺の“気”はほとんど外に出ていないが、俺が不用意に動くと何が起こるか・・・正直なところ俺自身、予測が出来ないからな」
 と、そう言ってルドラは再び身体を回し、神殿の窓から外へと視線を向けた。
 ヤマはそれ以上の回答を求めようとはせず、黙って深く頭を下げ、神殿を出た。