月に哭く

40 : 呪いの宣告

 ルドラとの短い話し合いの後、戦場に戻った死者の王ヤマは、その足で暁の女神の天幕を訪れた。
 そこにはアーディティア神群の名だたる戦神(いくさがみ)が顔をそろえてヤマを待っていた。

「ルドラ王の様子は?」
 隣に腰を下ろしたヤマを見て、ウシャスが訊いた。
「・・・別に。何も変わらない」
 と、ヤマが答えた。
「・・・何か伝言は?」
 と、重ねてウシャスが訊く。
「目新しいことは特に ―― ただ風向きにだけ注意するように、決して時を逃すな、と」
 と、ヤマが淡々と答える。
「・・・確かにマルト神群の戦神は大気や大地の力を増幅させて攻撃するようなやり方に、対応しなれていないようだからな。その点はこちらが有利なのか・・・」
 独り言のように風神ヴァータが言い ―― 次いでふっと息を吐く。
「それにしても、嫌な戦だ ―― むろん気持ちのいい戦など、ある訳もないが・・・」

 と、そこで面を伏せ気味にして黙っていたヤマが視線を上げた。
 それに呼応するように、皆の視線が天幕の出入り口に集中する。
「 ―― 風が」
 と、ヤマが言い、同時に出入り口に垂らされた布が、風を受けてかすかな音を立てた。

「ヴァータ。出陣出来そうか」
 と、ウシャスが静かに言った。
 ヴァータは数瞬、天幕の外を行き過ぎる風の質を測るような様子を見せてから頷き、
「この風は半日は止まないだろう ―― 既に用意は万端整っている。出よう」
 と、全ての迷いを振り切るような勢いで立ち上がり、言った。

 ヴァータの予測通り、風はそれからほぼ1日戦場を吹き抜けた。
 その風の強弱に合わせ、数千の矢が波のようにルドラ軍を襲う。
 矢での攻撃を予め読んでいたインドラは土壁を築いて攻撃を阻もうと試みたが、風の流れを的確に掴んだヴァータの一本一本の矢の動きを制御しているかのような攻撃は防ぎきれなかった。
 土煙と血潮と怒号、双方の戦神が操る馬と竜の悲鳴にも似た声が入り交じり、いつ果てるとも知れなかった。

 拮抗していた両軍の戦神の数は、その後起こった激しい風嵐に乗せた攻撃によってアーディティア神群が上回った。
 戦況がルドラ一族にとって好ましくない方向へ進んでいることは誰の目にも明らかだったが、戦には明るくないアーディティア神群に背を向けて逃げることはルドラ一族の誇りが許さなかった。
 だが風神が煽った風に乗った弓勢は恐ろしいほどで、とうとうマルトの四天王それぞれが率いる軍勢がその戦線を崩しかける。

「いったん引け。退却だ」
 前線から少し引いた小高い丘から戦況を見下ろしていたインドラが、決意して部下に退却を告げた。
 その命令を耳にした部下は一瞬、悔しげに顔をゆがめたが、すぐに退却の指示を出す。
 指示を受けた兵が全軍に退却を報せる笛を吹こうとした、その一瞬前。
 飛んできた弓が、兵の手から笛をはじきとばし、そのまま弓勢を落とすことなくその喉に突き刺さる。

「退却だ ―― 退却っ!!」
 勢い余るように身を乗り出し、神馬を数歩前に走らせながら、インドラが戦場に向かって怒鳴った。
 敗走することを快しとしないであろうと、我慢できるぎりぎりの線まで退却の時を引き延ばしていたのだ。
 そんな状態で更に時を逃せば、取り返しのつかないことになることを、インドラは分かっていたのだ。
 そんなインドラに向け、複数の矢の羽音がうなりを上げて放たれた。
 木々の陰にいたインドラがそうして出てくる瞬間を、狙いすましたようだった。弓勢は強く、狙いは的確であった。
 うなりを上げて飛んできた矢はインドラの厚い甲冑を射抜き、血に塗れた矢尻がインドラの背中までをも突き通す。
 インドラの神馬が、布を引き裂くような激しい声を上げて嘶いた。

「 ―― っ、インドラさまぁっ!!!」
 神馬から崩れるように落ちてゆくインドラの身体を支えようと、側に控えていた部下が慌てて手を伸ばす。
「・・・ぐ、・・・ ―― う、っ・・・っ・・・!!」
 肺からこみ上げてくる血潮を飲み込むことが出来ず、大量の血を吐いたインドラが昏倒した。
「英雄神 ―― 英雄神・・・っ」
「しっかりなさってください、インドラさま ―― 誰か!早く、早く止血をっ!」
「 ―― っ、た、きゃ・・・く・・・を、っ・・・」
 気力の全てを振り絞るようにインドラは退却の命を繰り返したが、止めどなくこみ上げてくる血が声を阻む。
 苦痛に顔を歪めつつ霞む視線を上げたインドラの視界に、更なる矢影が映り込む。だがもう避けることも、部下たちに避けるように警告することも、インドラには出来なかった。
 襲いくる矢のうなりと、同時に沸き上がる新たな悲鳴とうめき声。いくつかの鋭い衝撃。
 支えをなくし、新たに飛んできたいくつかの矢を受けたインドラの身体が、地面に崩れ落ちてゆく。
 それでも何とか震える腕で身体を支え、インドラは顔を上げた。

 霞みゆくインドラの視界に映ったのは、退却しそびれた四天王の軍勢に、死者の王軍と暁の女神の軍勢が襲いかかろうとしている図であった。
 既に四天王たちの姿はそこには見えず、雨のように降り注いだ矢の勢いに混乱し崩れかけつつも立ち向かうルドラ一族の戦神たちが、次々と打ち倒されてゆく。
 インドラはこみ上げてくる血を吐きすて、ゆらりと立ち上がる。
 そしてやけに重く感じる刀を、腰から引き抜いた。

「・・・聞こえるか、我が王 ―― ルドラの王よ・・・!」
 と、インドラが叫んだ。

 その声は何本もの矢に射抜かれ、よろめくように立つ者の声とは到底思えぬ、朗々とした声だった。
 インドラめがけて再び矢の嵐が襲ったが、インドラはもう、それを払うことすら ―― その素振りすら見せない。
 新たな矢が数本その身を貫き通したが、うめき声すら、インドラは上げなかった。

「同胞を裏切り、踏みにじらせたこの罪と我々の恨みは未来永劫、消えることも薄れることもない ―― 幾度生まれ変わっても、王よ、あなたに安寧の日が訪れることは決して、決してないであろう・・・!!」

 何本もの矢を受けているとは思えないほどはっきりとした声でそこまでを言い切ったインドラは最後、手にした大剣を宙にかざし、その刃先を自らの首にあてがう。
 そうしてあてがった刀を、インドラは躊躇うことなく自らの首筋に押しつけて、勢いよく引く。

「ルドラ、ルドラ、ルドラ ―― ルドラァアアアアアアアアアッッ!!」

 鈍く光るその刃で自らの喉を掻き切りつつ、インドラは力つきて倒れるまで、王の名を呼び続けた。
 傾きかけた陽が吹きあげた血煙にけぶり、戦場が血に染まった。