5 : あなたを、信じている
茫として導かれるまま歩かされていたディアウスは、怒鳴るように自分の名を呼ばれ、振り返る。
「お久しゅうございますな、天神ディアウス殿・・・!」
と、声の調子を変えずにインドラが繰り返す。
ディアウスは一言も声を上げる事が出来ず、ただ目を見開いて訳の分からない事を言うインドラを ―― 見覚えのないその人物を ―― 凝視していた。
パルジャやプリティヴィーが腕を強く引いたが、ディアウスはそこから動こうとしない。
彼等の様子を暫し眺めていたインドラが、右の唇の皮膚だけで笑った。
「ああも恐れていたこのインドラの事までお忘れとは、可笑しいを通り越して、哀れですらありますな」
「兄さま、行きましょう・・・!」
インドラの言葉を打ち消すように言葉を重ねてプリティヴィーが懇願し、ディアウスの守護神である双子がその身体を押すようにした。
数人の力に為す術もなく再び歩き出したディアウスに、インドラは更に声を高くして言う。
「忘れたいのならば勝手にすればよい、だが ―― だがその前に我が王のお心を返してくれ・・・!」
その声の底に含まれる真剣な調子がディアウスを再び振り向かせたが、振り向いたそこにはディアウスを守ろうとする人の壁があり、インドラの姿は見えない。
ただ声だけが聞こえ ―― 声だけになると表面上の嘲りめいた色はぐっと薄くなり、その声の裏に満ちる悲痛な雰囲気が増した。
「どうかお聞き届け頂きたい、天神よ!」、とインドラは叫ぶ、「それともここにああしてルドラ王を拘束し、その身をいや増す危険に晒させ、最悪の事態へと追い詰める事が天地両神一族の長として成す復讐の形なのか・・・ ―― !」
ディアウスは自分を取り囲む人々を押し退け、インドラの元に戻ろうとした。
しかしそれが許される筈もない。
待って、あの人は一体何を言っているんだ?と尋ねる質問もろとも、耳を塞ぐ勢いで誰かがディアウスの頭を抱え込むように抱き締め ――――
「このままここにルドラ王を留める事は殺す事と同じだ、分かっているだろう! ―― そなたが、ルドラ王を殺すのだ!」
という怒りと悲しみに震える声が、最後にディアウスの鼓膜を激しく打った。
何と言う事だろう ―― 足早に兄の部屋へと向かいながら、とプリティヴィーは歯噛みしたいような思いで考えた。
幾度か横目で隣を歩く兄の顔色を確認しようと試みたが、英雄神の声が遠く聞こえなくなったのと同時に抵抗をやめた兄は、以後誰が何を話しかけても一言も言葉を発さない。
俯いて歩き続けるその表情も、乱れて頬に落ちかかった髪のせいで窺い知る事は出来なかった。
マルト神群の領地内でなにか問題があったという大義名分を掲げて突然アーディティア神殿にやって来た英雄神を呪い殺してやりたいとさえ、プリティヴィーは思う。
“ルドラ神群領地内で起こった問題”とやらも、本当にすぐさま伝えに来なくてはならないような重要な問題だったのかと考えると、甚だ疑問ですらある。
大体、彼らの最近の行動は、不可思議すぎるのだ。
傷が癒えても尚、領地に帰ろうとしないルドラ王は勿論の事、王に会いに来る度、王の傷の治り具合を確認したいという名目で忌み嫌っている筈の天地両神一族に接触を図ろうとする英雄神 ―― 彼らのその奇妙な行動の裏にある(のであろう)意図は何なのかと考えだすと、夜も眠れない。
記憶が戻る事は万に一つも考えられなかったが、それでも兄に何らかの形で忌まわしい真実の欠片が伝えられる事があったら。
自分は預知の力に何の自信も誇りも抱けない。と突き詰めた表情で語っていた兄が、あれ以上に辛い想いを抱え込む事になったら ――――
想像すればするほど、プリティヴィーは吐き気すら覚える。
だからルドラ一族の者がこの神殿をうろついている間は、決して兄を外に出さず、その“気”の気配すら感じさせたくないとプリティヴィーは考えていたのだ。
それなのに“気”を感じるどころか、倒れそうになるまでその“気”に晒させてしまった。
兄の明るい顔を見たいというただそれだけの為にその行動範囲を広げた事が、こんな形で裏目に出るなんて ―― どんな理由があっても、誰に何を言われても、自分は心を鬼にし、兄を守らなくてはならなかったのに。
自分の甘さとふがいなさを、プリティヴィーは激しく責めずにはいられなかった。
辿りついた兄の自室に入ったプリティヴィーは、兄の身体を清めて服を着替えさせ、休ませるようにと指示を出した。
それから丁寧に煎じた薬草であたたかいお茶を作り、寝室に向かう。
寝台に横たわる兄にお茶の入った椀を差し出すと、ディアウスは黙って身体を起こしてプリティヴィーの手から椀を受け取った。
反応はないかもしれないと半ば覚悟していたので、受け取った椀に唇をつける兄の様子を見てホッとしたプリティヴィーは寝台の端に腰を下ろし、服や銀盤を手に侍女たちが部屋から出て行くのを眺めていた。
一番最後に、ディアウスの守護神である双子が寝室の扉をそっと閉めて出て行き ―― 暫くしてから、ディアウスが小さな音と共に手にした椀を寝台の横にある机の上に置き、再び寝台に身体を横たえる。
「気分はどう?」
と、プリティヴィーは兄の身体に薄手の布をかけながら、訊いた。
「大丈夫・・・ちょっと・・・、驚いただけだから」
と、ディアウスは答えた。
「驚くのは当然よ、私も未だに慣れないもの。兄さまが驚くのは当然だと思うわ」
「そう・・・初めて会った訳だし」
「ええ」
「私は元々、アーディテイアの戦神(いくさがみ)の“気”にも耐えられないほどだったし・・・」
「そうよ。また倒れてしまうんじゃないかと肝を冷やしたけれど・・・、本当に気分は悪くないの?」
「少し横になれば大丈夫だと思う」
兄妹の静かな会話は、そこで一旦途切れた。
プリティヴィーはゆっくりと寝台を軋ませないようにして立ち上がり、開いている窓を閉めて窓にかかっている布を引き下ろす。
「・・・プリティヴィー」
そのまま部屋を出てゆこうとしたプリティヴィーを、ディアウスが呼び止めた。
「なぁに、兄さま」
「あの方 ―― さっき会った方・・・、インドラと名乗っていらっしゃった方・・・妙な事を言っていた・・・」
「そうね。でも気にすることはないわ。彼らは私たちを嫌っていて、いつも訳の分からない事ばかり言うんだもの。私も最初は戸惑ったわ・・・でも気にしないのが一番よ」
「・・・もう一度ここへ、プリティヴィー」
と、ディアウスが囁いた。
乞われるままに寝台に近付いたプリティヴィーの手を、ディアウスが握る。
「私は、あなたを信じている」
と、ディアウスは一言一言、力を込めるように言い ―― 妹の顔を見上げた。
プリティヴィーは寝台の脇に膝をつき、両手で兄の手を包み込んだ。
「私はもうずっと先から、何を信じていいのか分からないでいる・・・。自分の持っている能力の意味すら、つまり自分の事すら分からないし、信じられない。
でも・・・でも、昔から、あなたの事だけは信じている。これからもずっと、信じていたい」
「もちろんよ、兄さま」
包み込むようにして握っている兄の指に激しく唇を押しつけながら、プリティヴィーは言った。
「信じてちょうだい、私は誰よりも、何よりも、兄さまを愛しているわ」
熱を帯びた妹の言葉を聞いたディアウスは小さく息を吐き、目を閉じる。
ディアウスが眠ってしまった後、プリティヴィーは兄の手を握ったままその場を動かず、いつまでもその寝顔を眺めていた。
だが一旦芽生えた疑惑の思いは、そう簡単に消えるものではなかった。
それはそもそも最初からディアウスの内にあり ―― 直視しないように努めてはいたものの、ディアウス自身が目覚めてからずっと、その存在を感じ続けていたのだ。
心では妹を信じたいと切実に願っていたディアウスだったが、直感が妹は真実を語っていないと告げていた。
日を追う毎に2つの思いの差は広がってゆき、ディアウスは相反するその思いに身体を引き裂かれるような気がする。
何かにつけてふいに黙り込んだり、落ち着かなげな素振りを見せるディアウスの姿は、誰の目から見ても痛々しかった。
ディアウスをこのままにしてはおけないと、誰もがそう思っていた。
しかし今の事態を打開するにはどうすればいいのか、どのようにすれば一番いいのかと考えてみると、手立ては全くない。
どんな事があったにせよ、記憶を消すなどという行為を選択するべきでなかったのだと影で囁く者は多かった。が、それは明らかに今更言った所で詮無いことでもあった。
皆、腫れ物に触るようにディアウスに接し、それがまたディアウスの精神を追い詰める ―― そんな最悪なからくりから抜け出せなくなっているなか、パルジャだけは根気良く殻に閉じこもりぎみのディアウスの元を訪れていた。
自室の一室の片隅に座り、殆ど身動きもしないディアウスの肩にマントをかけながら、パルジャはその名を囁く。
幾度か名前を呼ばれて漸く顔を上げたディアウスの表情は、固く強張っていた。
無言のまま手を伸ばし、パルジャは彼の乱れた髪を指で何度も梳く。
パルジャの優しい所作と慈しみに溢れた視線を受け止めたディアウスの両目から、透明な涙が零れ落ちた。
涙は後から後から頬を伝い落ち、膝の上に重ねられた手を濡らし、服に染み込んでゆく。
ひたすらに、ただ無音で流れ続ける涙は尽きる気配がまるでなく、流れ落ちる涙の量は時間の経過と共に却って増えてさえゆくようだった。
このまま放っておいたら彼がカラカラに干からびてしまうのではないかと、パルジャはそんな有り得ない心配までしてしまっていた。
「・・・パルジャ・・・私・・・私は・・・」
長い長い空白の後、ディアウスが涙の向こうからパルジャを呼んだ。
震える彼の声を耳にしたパルジャは、もうこれ以上ディアウスを一人で放って置く事は出来ないと、強く思った。
それまでパルジャは自然な流れの中でディアウスが自分を選んでくれればいいと考え、その為の努力をしてきた。
これからもずっと、彼が自分を選んでくれるその日まで、そのような努力をし続けようと思っていた。
だが今、この時、パルジャは多少の強引さや、目の前にいる弱りきった彼の隙につけこむような真似をする事に、躊躇いを覚えなかった。
「ディアウス・・・」
と、パルジャは言い、伸ばした両手を愛しい神の頬に触れさせた。
続けて囁かれる愛の言葉は、じわりとした温もりと共に、ディアウスの乾いた心に染みてゆく。
彼の求愛を素直に受け入れられたらどんなにいいだろうと、以前からディアウスは考えていた。
優しく力強い彼に全てを委ねられたら、幸せになれるかも知れないと夢想したのも、1度や2度ではなかったのだ。
彼を選ぶ事で得られるものは、昔読んだ物語から夢見ていた、めくるめくような愛情の物語にはならないかも知れない。けれど彼を選べば、ささやかではあるけれど、永遠が約束された確かな温もりが手に入る事は間違いなかった。
それで、いいのかもしれない。
それが、いいのかもしれない。
ディアウスはそう考え、その想いを抱いたまま、パルジャを見上げる。
言葉はなくとも、彼の濡れた双眸が決意の全てを物語っていた。
細い両肩に置いた手を手前に引き寄せると、ディアウスは素直にパルジャの胸の中に倒れこむ。抵抗はなかった。
気の遠くなるような長い期間ずっと追い求め、途中諦めかけたことさえあった彼がようやく自分のものになるのだ ―― 強い、強すぎる歓喜が、パルジャの胸に押し寄せ ―― その波に押されるように、パルジャはディアウスの唇に自分のそれを重ねた。