月に哭く

6 : この唇じゃない

 優しく抱き寄せられ、そっと口付けられる。
 初めての抱擁と、口付け ―― なのに、その筈なのに、ディアウスは奇妙な違和感を感じた。

 最初は気のせいだと思った。
 違和感など感じる理由がない、そんな筈はないのだ。
 しかし感じる違和感はディアウスの中で、瞬く間にその大きさを増してゆく。

 この腕じゃない、この胸じゃない、この指じゃない、そして ―― この唇じゃない。

 悲鳴のようにそう思ったディアウスは茫然とし、何かに突き動かされるようにパルジャの胸を強く押した。
 が、ディアウスを抱くパルジャの腕の力は弱まらない。弱まらないどころか、腕に込められた力はどんどん強くなり、やがてディアウスの身体は為す術もなく床に押し倒されてしまう。

「・・・待っ・・・、て・・・待ってください、パルジャ・・・!」
 と、ディアウスは叫んだ。
「俺はもう、十分待った、ディアウス」
 と、パルジャは言った。
 そしてディアウスの首から肩を撫でおろすようにしたパルジャの手が、服の中に潜り込んでくる。

「・・・っ、・・・あ・・・!」

 パルジャの手指がせわしなく肌を這い、首筋に強く押し当てられた唇に肌を吸われたディアウスの身体が、びくりと震えた。
 そんなディアウスの反応に、パルジャの愛撫が激しさを増してゆく。
 震える手でパルジャの胸を押し返すディアウスだったが、そんなパルジャの前では全く意味を成さなかった。

 これでいい、と思ったはずだ。
 泣きそうになりながら、ディアウスは考える。
 長い、長い間、パルジャがどれほど自分を想い続けていたかは、ディアウス本人が一番知っていた。

 だから、いいと思った。
 適当に流されたわけでもなく、一時の衝動などでもなく、ずっと考えてきた、これがその答えだったはずだ。

 それなのに ―― それなのに何故自分は、こんなにも激しい違和感を覚えてしまうのだろう?
 理由に心当たりはまるでなかったが、自分が今までずっと無意識の内に誰かの腕を求めており、それは今自分を抱くパルジャではなく、他の誰かであるという事だけは分かった。
 自分自身が知らない誰か ―― それが誰なのかも分からないのに、自分は狂おしいまでにその人物を求めている。

 “彼”に抱き寄せられ、あの低い声で名前を呼ばれ、“彼”の指で丁寧に髪を梳かれ、口付けられ、そして ―― そして ―――― 。

 そこで再び、ディアウスは茫然とする。
 “あの低い声”・・・?
 一体、誰の声だというのか。

 必死で、考える。
 自らが持つ記憶の箱をひっくり返し、そこにいる筈の“彼”を捜し求める。

 しかし、ディアウスには分からなかった。
 どんなに考えても、一瞬心によぎった声の持ち主が誰なのか分からない。

 自分がこれほどまでに求めている人物の事を、当の本人である自分が知らない、思い出せない ―― どう考えてもあり得ない。おかしすぎる。
 やはり自分は、何かを忘れているのだ。
 何か、とてつもなく重要な事を。

 乱暴ではないものの、嵐のような愛撫に揉まれながら、ディアウスははっきりとそれを確信する。
 誰かが自分の中から、大切なものをごっそりと持ち出してしまっている。
 目覚めてこのかた、ずっと恐れと共に抱き続けていたその悪い予感がただの予感などではなく、事実である事をディアウスは悟った。
 そう悟った瞬間、胸に悲しみと怒りと困惑と ―― 言いようのない重苦しさが溢れる。

「ディアウス・・・」
 と、耳元でパルジャが囁いた。
 その声すら、もう、聞きたくなかった。

 ディアウスは再び、渾身の力を込めてパルジャの胸を押し退けた。
 その明らかに普通ではない拒絶の力に驚いたパルジャの腕から力が抜ける。
 素早くその腕から抜け出したディアウスは服を整えるのももどかしく、部屋を飛び出した。
 自分を呼ぶパルジャの声や部屋の外にいた守護神の制止の声を振り切り、ディアウスはプリティヴィーの姿を探す。

 今回ばかりは何が何でも妹に真実を話してもらおうという強い決意を胸に抱きながら、途中、行きあった女官から妹の居場所を聞きだしたディアウスは、転がるような勢いでその部屋に向かった。
 すれ違った人々が息を乱して廊下を走る天神を見て驚いているのが分かったが、構っていられない。

 部屋の前に着き、弾みきった呼吸はそのままに、入り口に掛けられている布の隙間から室内に滑り込もうとした瞬間、布の隙間から漏れ聞こえてきた会話を耳にしたディアウスは ―― 声にならないうめき声を上げ、両手で顔を覆った。

「私はプリティヴィー様がなさった事が、間違っていたとは思いません」
 と、アラーニーは普段よりも2段階ほど語気を強めて、言い切った。
「マルト神群に囚われていた間の記憶は、ディアウス様にいい影響を及ぼすものとは考えられませんから」

 部屋に重苦しい沈黙が流れた。

 ディアウスは床に根が生えたように、入り口の布の陰で身動き出来ないでいる。

 やがて静かな声で、それは何度も聞いた。という風神ヴァータの溜息交じりの声がした。
「しかし今のディアウスの状態がいいものだとは思えない。それはプリティヴィー、そなたとて同じではないのか?」

 仲の良いヴァータの言葉に、プリティヴィーが躊躇う気配がさっとその場に流れた。
 ヴァータは続ける。

「記憶を消したことも含めて、全てをディアウスに話すべきだ。あんなディアウスの様子を、これ以上見てはいられない。アディティー様も、そうおっしゃって・・・」
「それは駄目よ」
 と、ヴァータの言葉を遮ってプリティヴィーは言った。
「それは絶対に許さない、この私が。人質としてマルト神群に囚われていた間の忌まわしい記憶に兄さまが苦しまれるなんて、私には耐えられない。どんな嘘をついても、あの間に起こった事は隠し通さなくては」
「でも実際、ディアウスは何かがおかしいって気付いてる。このままディアウスを放っておくって言うのか!?そんなのって・・・!」
「気を静めて、スーリア。あなたはいつもそうして簡単に“気”を乱しすぎる。その度に荒れた大地を整えるのはこの私の仕事なのよ。これ以上余計な仕事を増やされては適わないわ」
 ぴしゃりと冷たくプリティヴィーは言ったが、スーリアの興奮は収まらない。
 ふざけるな、と叫ぶのと同時にスーリアが何かを蹴り上げたかどうかしたのだろう、大きな音が廊下まで響き渡った。
「スーリア・・・!」
「そんな言い方ってあるかよ!お前はディアウスの事が心配じゃないのか?ろくに食事もとらずにやつれてくのを見て ―― 何も思わないのか!」
「私が何とも思っていないとでも思うの?この世の誰よりも兄さまを心配しているわ、当たり前でしょう・・・!!」
 と、プリティヴィーが叫んだ。
「でもいつの日か必ず、絶対に、絶対に、兄さまが心安らかな日々を送れるようにしてみせるわ・・・!私のこの手で、絶対・・・!」
「・・・そう出来ればいい。私も ―― いや、他の者も皆、心からそれを望んでいる、プリティヴィー」
 と、暁の女神ウシャスが言った。
「しかしそうして夢の夢を見て過ごせる時期は、とうに過ぎてしまっているように感じる。そう思うからこそ、こうして集まっているのだ」

 再び、沈黙があった。
 何を言っても無駄だろうという諦めの気配がその場の空気を満たしているのが分かり ―― それはこういった話し合いがこれまでに何度も繰り返されている事を如実に示していた。

「誰に何を言われても、兄さまに真実を伝える事は絶対にしないわ」
 沈黙を破って、プリティヴィーが断固とした口調で呟いた。
「あの忌まわしい期間の間に、どんな恐ろしい事があったかも分からないのに」
「そうやって真実を闇に落とし込んでしまったのは、一体誰なのだ」
 という低い声は死者の王のもので、プリティヴィーはそれに対して言葉では何も反応せず、足音高く部屋を出ようとし ―― そこで、兄妹は顔を合わせる。

 その光景を目にした誰もが、鋭く息を呑んだ。

「・・・ディ、ディアウス様 ―― 一体、いつからそこにいらしたのです・・・?」
 恐る恐る尋ねたアラーニーの問いに答える事無く、ディアウスはじっと妹を見詰めている。
 兄さま、とプリティヴィーは奇妙にねじれた声で言った。
 ディアウスは妹の双眸を真っ直ぐに見据えたまま、口を開く。
「今話していた事が、真実か」
 と、ディアウスは言った。
 それはとても静かで平坦な声だったが、聞く者に強い圧迫感を与える声だった。
「シュラダ山に行って、あの薬草を取って来たのか・・・その行為が預知者にとって禁忌であるという事を、まさか忘れたわけではないだろう、プリティヴィー ―― そして、パルジャも」
 自分の後を追いかけてその場にやって来ていたパルジャの方を振り向きもせず、ディアウスは続ける。
「あなたまでそれに手を貸して、私を騙していたなんて」
「ディアウス・・・」
「あの山には天(そら)を翔けなければ行けない。風神が扱う鳳凰は風神一族以外には乗りこなせないのだから、私の記憶を消す為にあの薬草を取りに行くのには、翼龍を借りるしかない ―― それとも、共に行った・・・?」
「兄さま、それは違うわ、信じてちょうだい、パルジャは何も知らなかったのよ・・・!」
「“信じろ”?」
 ディアウスは訊き返した。そして笑った。
 彼の顔に広がった笑みは一応笑いの形を模してはいたが、笑いではなかった。
「一体、何を信じろと?目覚めてからずっと、あなたが私に言っていた事は嘘ばかりだったというのに」
「兄さま・・・」
 プリティヴィーは兄を呼び、その肘辺りに手を伸ばした。
「触るな」
 ディアウスは素早く身を引き、そのまま踵を返そうとした。
 慌ててディアウスに取り縋り、待って、話を聞いて!と懇願するプリティヴィーの声が、頬を打つ乾いた音でぷつりと途切れる。

 共にこの世に生を受け、一緒に成長してきた中で兄に手を上げられた経験など一度もなかった。
 打たれた痛みより、打たれた事実が信じられず、プリティヴィーは愕然として頬を押さえ、兄の顔を見る。

「信じていたのに ―― 信じたかったのに ―― プリティヴィー・・・!!」
 初めて声を荒げて、ディアウスは叫んだ。
 打たれたプリティヴィーより傷付いた顔をしたディアウスの頬に、透明な雫が一筋、伝って落ちる。

 誰も何も言えず、身動きすらしなかった。
 周りを取り囲んでいる人々をかきわけ、ディアウスがその場から走り去ってゆく。
 数瞬の間を置いて、アラーニーが後を追おうとするのを、パルジャが止める。
「今は、追いかけない方がいい」
「でも・・・ ―― 」
「例え誰と会っても、アーディティア神殿の周りであれば危険はない」
 疲れ切った声で、パルジャは言った。

 やみくもに走り、走り疲れたディアウスは、足を止めた渡り廊下の柱にぐったりと寄りかかった。
 最近殆んど動いていなかったので、荒くなった動悸と呼吸は中々おさまらない。
 何度か深呼吸を繰り返し、ちらりと辺りに目をやると、そこは無垢の女神アディティーの住まう神殿だった。
 しかも何処をどう通ったものだか、奥庭の方に来てしまっている。
 ここに入るには予め神殿の主人であるアディティーの許可をとらなければ駄目で、更に当日、要所要所でそれを確認されるのが常なのだが ―― 今日は1度も止められなかった。
 或いは、自分の余りの剣幕に誰も声をかけたり、止めたりも出来なかったのかもしれない。

 そう考えながら身体を起こし、顔を上げた時に初めて、ディアウスは誰もいないと思っていたその場所に人がいる事に気が付いた。
 ぎくりと身体を強張らせたディアウスは、離れようとしていた柱の影に、慌てて身を隠した。