7 : 思い出は明日から
柱の影に隠れたのは反射的な行動だったが、それはあまり意味を成さない行為だった。
何故なら彼は ―― 欄干にもたれて座り、分厚い本を手にした彼はディアウスが彼の存在に気付いた時既に、じっとこちらに視線を注いでいたのだ。
一瞬目にしただけだったが、その人物が誰であるかはすぐに分かった。
アディティーが神殿の奥に住まわせているという噂の、マルト神群を統べるルドラ王だ ―― 彼の名を心に呟いた刹那、ぞくりとディアウスの背筋に悪寒が走る。
物心ついた頃からディアウスはマルト神群、ひいては神群を率いるルドラ王の残虐非道ぶりについて、嫌というほど聞かされて育ってきた。
今いる場所はアーディティア神群の最高神、無垢の女神アディティーの居城であり、流石にここで無体な事をしたりはしないだろうと思ったが ―― それは飽くまでも希望的観測に過ぎない。
血塗られた狂気に精神の全てを侵され、この世の何にもまして預知者という存在を疎んじて生きているというルドラ一族の長であり、暴風雨神という異名すら持つルドラという名の王が、場所も何も忘れて激昂しないという保証はどこにもないのだ。
呼吸が浅く、早くなり、治まりかけていた胸の鼓動が、再び速度を増し始める。
早くここから逃げ出さなければと思った。が、恐怖の鎖に足が絡め取られて身動きが出来ない。
こうして逃げる事も出来ず、隠れている自分の元にいつルドラがやってくるものかとビクビクしていたディアウスだったが、いつまで経っても彼がこちらに近付いてくる気配はなかった。
どの位の時が流れただろう ―― 柱の影で何刻もの時を過ごした気分になりながらディアウスが恐る恐る柱から顔を出してみると、ルドラは何事もなかったかのように手にした本に視線を落としている。
こちらを見ていたのは気のせいなどではない(と思う)し、まさかあんな風に走ってきた自分に気付かない筈も無いが、とにかく助かった。と思ったディアウスは、心底ほっとしながらこっそりとその場を後にしようとした。
暫くは妹や一族の者達の顔を見る気になれなかったので、その間この神殿に滞在させて欲しいとアディティーに頼んでみよう、と思いながら。
しかしふと ―― 先程聞いたアラーニーや妹の言葉が心をよぎった。
プリティヴィーが記憶を消したという期間、自分はルドラ神群に囚われていたのだという。
どういう経緯があって自分が彼らの元に囚われる事になったのかは分からないが、記憶のない空白の間、自分は今そこに座っているルドラが住む龍宮殿にいたのだ。
つまり自分の周囲で、失われた記憶の中身について知る人物は、彼以外にいないという事になる。
王である彼が虜囚だった自分の処遇を事細かに把握しているとは思えない。それでも、大まかな概要くらいは知っているかもしれない。
とはいえ、彼と話をするのは怖かった。
それしか失われた記憶を取り戻す方法はないと分かってはいても、彼の元に歩いてゆき、話しかけると考えてみただけで、背筋が凍る思いがした。
行ってみようか、やめようか、どうしようか ―― 悩むディアウスの脳裏に、以前偶然顔を合わせたルドラ一族の戦神(いくさがみ)である英雄神の言葉が蘇る。
忘れたいのならば勝手にすればよい、だがその前に我が王のお心を返してくれ ―― 彼の叫び声の中に漂っていた雰囲気を思い出したディアウスは、持てる勇気の全てを振り絞るようにしてゆっくりと柱の影から出てゆき、そろそろとした足取りでルドラに近付いてゆく。
異様に長い時間をかけて ―― 途中、何度も立ち止まりながら ―― ルドラが座っている場所から5歩ほど離れた地点に立ち止まったディアウスは、消え入るような声で、彼を呼んだ。
「・・・あ、あの・・・ぅ・・・ルドラ王・・・で、いらっしゃいます・・・よね・・・?」
それはちょっとした微風が吹いただけでどこかへ飛んで行ってしまいそうな小さな声だったが、ルドラは面倒くさそうに視線だけを動かしてディアウスを見て、
「・・・そうだが、何か?」
と、言った。
お世辞にも優しいとは言いがたい彼の低い声に声帯も凍りつくような感覚を覚え、ディアウスはすぐに次の言葉を発する事が出来ない。
「・・・あ・・・あなたは ―― 私・・・、私の事を・・・、知って、いるんですよね・・・?」
身体中に走る震えと共に声まで途切れてしまいそうになるのを必死で堪えつつディアウスが続けると、ルドラは表情を変えず、何故?と聞き返してくる。
事情により記憶を失ってしまっており、その間自分がマルト神群の城である龍宮殿にいたらしいのだという説明をしながらディアウスは、やはり“天神”の神名(しんめい)を預かる身である自分の事など、ルドラ王が知っている筈もないかもしれない。と思っていた。
“王の心を返してくれ”という英雄神の言葉の意味はよく分からないが、ルドラ一族の戦神(いくさがみ)達が忌み嫌っている預知者一族の、しかもその長である者の事など、逐一王に知らせたりはしないのではないだろうか。
いや、知らせないどころか、そんな話を王の耳に入れることすら汚らわしいと考えるかもしれない ―― 自分が彼の治療に携わる事を激しく反対され、禁じられたように。
それでも失われた記憶を取り戻す可能性の、ほんの欠片であっても拾わずにはいられないディアウスは、諦めきれずに続ける。
「些細な事であっても・・・結構ですので・・・。知っている事がありましたら、教えて・・・頂けませんか・・・?」
「例えば俺がお前の事を知っていると仮定して」
と、ルドラ王はそこでようやく顔をあげてディアウスを見て、言った。
「俺がした話を、お前は全てそのまま信じるのか?それが記憶を失うよりも危険な行為であると、どうして分からない?俺が嘘をつくとは、思わないのか」
ルドラ王のその返答を聞いた時、ディアウスの心を何かが小さく、しかし鋭く打った。
その振動を感じた瞬間、身体中を拘束していた見えない戒めが細かく砕け散る音が聞こえた気がした。
「あの、今、何ておっしゃいました?」
3歩ほどルドラ王に近付き、咳き込むように、ディアウスは訊いた。
「え?」
突然がらりと態度を変えたディアウスを怪訝そうに見上げ、ルドラは訊き返した。
「今、おっしゃった事をもう一度、言ってみていただけませんか?」
「 ―― だから・・・、他人が話す過去の話を鵜呑みにするのは、記憶を無くするよりも危険な行為だと思わないのかと言ったのだが」
「その、後です。その後・・・」
と、尋ねられたルドラは考えるように数瞬の間を取ってから、
「さぁ・・・、忘れた」
と、答えた。
ディアウスは軽く唇を噛み、そうですか・・・。と目を伏せた。
「・・・勿論・・・、話していただいた事を全て鵜呑みにしようとは思っていません。しかし・・・自分の記憶 ―― 過去の思い出の中に纏まった空白があるというのは、とても・・・不安なもので・・・」
中くらいの間をとってから、ディアウスは続ける。
「ですから・・・、何か思い出したら、話して欲しいのです。どんな事でも、構いませんから・・・」
そう呟き、悲しげに目を伏せたディアウスをルドラはじっと見上げていたが、やがて溜息をつき、音をたてて手にしていた本を閉じる。
はっと顔を上げ、反射的に半歩ほど身を引いたディアウスを見て微かに苦笑してから、ルドラは言う、「思い出か・・・、そんなもの、後から取り戻そうと躍起になる必要など、ないのではないか」
「・・・え・・・?」
言われた言葉の意味がよく分からず、ディアウスは首を傾げる。
「思い出とはつまり、過去という意味だろう。もう終った ―― 過ぎ去ってしまった、どう足掻いても変えられない事を指すのだろう」
「・・・それは・・・、そう・・・ですけれど」
「失ったものを懐かしむ気持ちとか、そういうのが分からない訳ではない。無くしてしまったものを取り戻したいという気持ちもな。
しかし、それより ―― 過去よりも大切なのは、そこから先の事だ。未来の事だ」
きっぱりと、諭すように、ルドラは言った。
揺ぎ無い意志に彩られた鋭い光を放つ緑色の双眸を、ディアウスは無言で見下ろしていた。
ルドラは真っ直ぐな強い視線をディアウスに注いだまま、続ける。
「それに思い出は、歩いてゆく後から勝手についてくるものでもある ―― 思い出はまた明日から、作ってゆけばいい」
明日から?とディアウスは尋ね、そう。とルドラは少し、ほんの少しだけ表情を柔らかくして、頷く。
「・・・ありがとうございます」、とディアウスは笑いながら言った。
「・・・礼を言われる意味が分からない」、とルドラがぶっきらぼうに言った。
「だってルドラ王、一応慰めてくださっているのでしょう?」
「・・・さて、どうだろう」
「・・・面白い方」
と、言ってディアウスはくすくすと笑った。
笑いながら、こんな風に声を上げて心から笑ったのはいつ以来だっただろうと思った。
笑うディアウスを憮然とした顔で見ていたルドラは唇を小さく曲げて悩む素振りを見せてから、持っていた本を床の上に置き、無造作に首の後ろに手をやった。
何だろうとその様子を見ていたディアウスに向けて、ルドラは首にかけていた紐から下がった小さな袋を差し出す。
そろそろと手を伸ばし、差し出された袋を受け取ったディアウスはその中に入っているものを出して見て驚き、柳眉を寄せる。
「これは ―― 月虹石ではないですか・・・!何故これを、あなたが・・・!?」
「・・・預かったのだ」
「預かった?・・・誰から?」
「それは出来れば、そなた個人で持っていて欲しい」
ディアウスの問い掛けを無視して、ルドラは言った。
「・・・私個人で・・・つまり、一族で保管するというやり方ではなく、という事ですね?」
ルドラの口調に細かい説明はしたくないという強い意志が滲んでいるのを一瞬にして感じ取ったディアウスは、別の質問を口にする。
ルドラは頷き、床に置いた本を再び手に取った。
「それは2人の女から預かったものだ。然るべき場所にいる、持つべき人物に渡して欲しいと頼まれた。そなた以上に条件を満たす者に、今後会えるとは思えない。それに、彼らはそれを天地両神一族の城の地下に保管するというような意味で俺に託したのではなかったようにも思うのだ。恐らく」
「 ―― 大切な、方々だったのですね・・・ルドラ王にとって、そのお2人は」
ディアウスの言葉に対して、ルドラ王は特に反応を示さない。
が、すっと伏せられた瞳に深く、色濃い悔恨の影がよぎるのを、ディアウスは見逃さなかった。
「分かりました。大切に、お預かりします」
と、言ったディアウスは手にした小袋を一度胸元に抱き締めるようにしてから、ゆっくりと首にかけた。
ルドラ王が視線の隅でそれを確認しているのを感じながら、ディアウスは月虹石の入った袋を胸元に仕舞う。
そして更にもう一歩ルドラに近付き、その場に腰を下ろした。
「・・・もう少し、ここにいてもいいですか」
と、ディアウスは静かに訊いた。
「そなたも知っていると思うが、平たく言うと俺はこの区域に幽閉されている身なのだ」
と、ルドラはそっけなく言った。
「だから、この神群最高神の1人であるそなたがどこで何をしようと、俺は文句を言える立場にはない」
ディアウスはそう答えたルドラの横顔を見て微笑み、自分の両膝を抱えた ―― 一族の者達の細やかに気を使った言葉使いよりも、ルドラ王の意地悪い言葉使いの方が芯から優しく、心地よいものに聞こえるのは何故なのだろうと思いながら。