8 : 愛のある手
「アディティーさま・・・!アディティーさまはどちらにあらせられます・・・!アディティーさま・・・!」
必死で興奮を抑えようとしている努力は感じられるものの、全く効を奏していない声が自分を呼ぶのを聞き付けたアディティーは、慌ただしく外出の用意をしていた手を止めた。
そして戸口から顔を出し、
「私はここよ。何事なの、一体?」
と、廊下を走りすぎようとしていた女官を呼びとめる。
「ああ、アディティーさま・・・、大変でございます、ディアウスさまが・・・!」
「知っているわ、事実を知って姿を消してしまったと言うんでしょう?さっき聞いたわ。私も今から探しに行こうと思っていたのよ」
「いえ、そうではないのです、今しがた、ディアウスさまが下にお見えになったのですが・・・ ―― 」
「まぁ、ここに来たのね、それなら良かったじゃないの。あまり長いこと外気にあたるのはディアウスの身体に触るだろうと、心配していたのだけれど・・・。
それで、プリティヴィーには連絡したの?」
「そ、それが・・・、ディアウスさまをお連れになったのがルドラ王なのです・・・、でもディアウスさまの様子がおかしくて ―― 私・・・いえ、皆、もう、ただただ恐ろしくて、どうすればいいのかと・・・、アディティーさま・・・!」
両手を振り絞るようにして女官が言ったのを聞いたアディティーはさっと眉根を寄せ、無言で神殿中庭奥の、ルドラ王が暮らす離宮の方へ足を向けようとした。
が、そう距離を行かぬうちに、廊下の向こうからルドラが歩いて来るのを見て ―― その両腕にディアウスが横抱きに抱えられているのを見て ―― 流石のアディティーも驚きの余り一瞬その場に立ち尽くしてから、慌ててルドラの元に駆け寄る。
「ルドラ王・・・!一体どうした事です、これは・・・!」
「どうもこうも、何とかしてくれ」
そう言われ、アディティーはディアウスを包み込んでいる黒いマントをずらしてその顔を覗き込み ―― まぁ。と呟いてから、ルドラを見上げる。
対するルドラは表情を変える事無く、
「断っておくが、俺は一切何もしていないからな。勝手にやって来て、横に座っていたと思ったら勝手に倒れこんで来て、見てみたら寝ていたのだ。
そなたの部下達がこの状況を見て真っ青になって泣き叫んだり、倒れ伏したりしていたが、それどころじゃなく驚いたのはこの俺だ」
と、ルドラは呆れきったような口調で言った。
アディティーはほっと息を吐いてから遠巻きに様子を窺っていた女官達に、ディアウスはただ眠っているだけであるという事、そしてディアウスが無垢の女神の神殿にやって来ており、今日は彼をここで休ませる事にする旨を天地両神一族に伝えるよう命じた。
そしてルドラに向かって、後について来て下さい。と言った。ルドラは言われるまま、黙ってアディティーの後についてゆく。
神殿の奥へと向かうにつれ人気はなくなってゆき、2人の足音のみが人の気配を感じさせるものになった頃、ルドラが口を開く。
「すまなかったな」
「・・・何を謝るのです?先程おっしゃっていた通り、ディアウスが勝手に横で眠り込んでしまったのでしたら、謝る必要などないではありませんか」
「・・・それはそうだが、余計な騒動を起こしてしまったのは確かだろう」
「余計というのが何を指すのかは分かりませんけれど」
と、アディティーはちらとも振り返らずに言った。
「例え誰であっても、この世に起こることを一方的に“余計な出来事”と判断する事はおこがましいのではないかと、私は考えます。それは神という称号を与えられた私たちですら、判断が難しい事なのではないかと」
「そうだな、確かにそうかもしれぬが」
ルドラは言った。そして両腕に抱いたディアウスの白い顔を見た。
「・・・それにしても、この天神は余りに無防備すぎはしないか。アーディティアの神々が皆こうなのか、彼が特別なのかは知らぬが・・・、いや、“ルドラ王”の前で眠り込む“天神”というこの図は、無防備などという生易しい言葉では到底言い表せないと思うが」
「・・・そうかもしれませんね。しかし少なくとも彼は ―― ディアウスは、無防備という言葉からは程遠い神ですわ」
アディティーはそう言って廊下の突き当たりの部屋の扉を開け、中へと入ってゆく。
そしてルドラがディアウスを寝台に横たえるのを手伝いながら、アディティーは思い出していた。ディアウスがアーディティア神殿に戻ってきた時の様子を。
あの時もディアウスはこれと同じ様に黒いマントに身体を包まれ、神馬の背に乗せられて戻ってきた。
そして今、ディアウスの身体を包んでいたマントを取り去るルドラの、一見すると何という事はない。という風なやり方の底に、どこか丁寧な慈しみのようなものが滲んでいるのを目の当たりにし ―― もうこれ以上、1秒たりとも静観していられないような気分になったアディティーは、そのまま黙って立ち去ろうとしたルドラの背中に、
「国に、帰られるおつもりですか?」
と、問いかけた。
ゆっくりと振り返ったルドラは暫しアディティーを見詰めてから、ふっと目を細めて聞き返す、「・・・何故?」
「・・・違うのですか?そう思われているのではないのですか ―― もう、これで思い残すことはないと考えていらっしゃるのでは?」、とアディティーは言った。
ルドラは返事をしようとはしなかった。
表情の全てを消し去ったルドラの顔を真っ直ぐに見て、アディティーは続ける。
「2人の間に何があったのか、それを今更問おうとは思いません。あった事があって、なかった事はなかった。それを2人が分かっていればそれでいいのです。しかしその一部が図らずも闇に覆われてしまった今 ―― この状態のディアウスを1人放って帰ってしまわれて、後悔は、しませんか・・・?」
アディティーが発した問いを聞いたルドラは、床に視線を落としてから両目を閉ざす。
「 ―― 愛して、いらっしゃるのでしょう・・・?」
短い沈黙を破って囁くように、アディティーは言った。
ルドラは瞳を閉ざしたまま、微かに笑う。
「愛していると言ったら、どうするのだ。何かが変わるとでも言うのか」
と、ルドラは言った。平坦な声だったが、どこか投げやりな雰囲気が漂う声だった。
「ルドラ王・・・」
「何にせよ、“無垢の女神”としてこの神群を取り纏める女神であるそなたが、口にする言葉とは思えぬな。
今後我が一族と対等にわたり合ってゆこうと思うのならば、どんな些細な言葉であっても、よくよく考えてから口にした方が良い。俺が言うのもなんだが、俺の部下達はそのようにてらいなく真意を口にして渡り合ってゆけるような、生半可な相手ではない」
「・・・ご忠告はありがたく胸に留めますが」
相手の機嫌をわざと損ねようとするようなルドラの物言いに、少しも気分を害する様子なく、アディティーは言った。
「しかし、ディアウスのこんな ―― なんと言ったらいいのか・・・自然、というか、無理のない表情を見たのはいつ以来だったか、思い出せない位なのです。ですから、つい・・・」
アディティーは言い、眠るディアウスの顔を見下ろした。
ルドラは表情を変えなかったが、部屋を出て行こうとした足を進める事もしなかった。
全く聞く耳を持っていないという訳でもないのだろうと判断したアディティーは、続ける。
「私の一族は天地両神一族と比較的懇意にしていたので、昔 ―― まだ神名(しんめい)すら与えられていなかった頃ですが ―― 彼や彼の妹であるプリティヴィーと、共に“気”を高める修行などをしたものでした。その交流の中で時折、ディアウスは“見えた”夢をあれこれと話してくれたりもしました」
そこでアディティーは一呼吸分の間を開けた。一呼吸分の完璧な沈黙が、その場に流れた。
「彼の能力は、ありとあらゆる意味において非常に高いものでした。それは幼かった私にさえ分かる位でしたから、周りの期待 ―― 特に天地両神一族の期待はそれは大きなものになってゆきました。時が経つにつれ、ディアウスの周りには壁を作るかのように人が増え、彼の自由は瞬く間に奪われてしまって。その頃にはもう、見た預知の話をしてくれる事はなくなり・・・、同時に笑顔はもちろん、声を聞くことすら稀になって・・・」
そこでアディティーは顔をあげ、縋るような視線でルドラを見た。
「こんな事を言うのはご指摘の通り、甘いのかもしれません。しかし ―― 私は一神群を統べる女神であるのと同時に、ディアウスの友人でもあるのです。ですからもうこれ以上、彼が1人で苦しんでいる姿を、黙って見ていられないのです。
ディアウスはおそらく、暫くこの神殿にいさせて欲しいと言うと思いますし・・・その間だけでも、この地に留まっていただく事は出来ませんか?龍宮殿の様子が気になっていらっしゃるのは当然ですし、無理なお願いなのは重々承知ですが・・・」
「・・・友人を思うそなたの気持ちは分からぬでもないが」
考え込むように唇を噛んでから、ルドラは言う。
「俺の一族の心配はともかくとして、ここに俺と天神 ―― ディアウスが共にいると、そなたが困った立場に置かれるのではないか。失礼ながら、アーディティア神群の実権を握るのはそなただけでなく、天地両神一族であるとも聞くが」
「確かにそういう一面があるのは事実ですが、天地両神一族には戦神(いくさがみ)はおりませんし・・・、戦にならない範囲の事でしたら、なんとしてでも誤魔化すなり、押さえ込むなり、してみせますわ。
直ぐに剣が出てこないのであれば、口先ひとつでどうとでもなりますもの ―― そういった点では、ルドラ神群より遥かに扱いやすいと思いますが」
あでやかに微笑んで、アディティーは言った。
ルドラは自分に向けられたアディティーのその挑戦的とも言える笑顔を長いこと、伺うように眺めてから、
「・・・見かけによらず、いい性格をしている」
と、感心したように言った。そして小さく肩を竦め、部屋を後にした。