誓い

:: 3 ::

“ルドラ”という名を継いで龍宮殿に上がって以降、覚えなければならない事、やらなければならない事、求められる事は実に多かったが、俺は暇を見ては人目を忍び、彼女に会いに行った。
 様々な方向性の勉強をさせられる中で“預知者”という存在の恐ろしさについても嫌というほど教えられたが ―― 話を聞けば聞くだけ、一体何が真実で何が嘘なのか分からなくなっていた。

 確かにサラスは(そう、後日、彼女は自分の名をサラスと名乗った。長い事、俺はそれが本当の名ではないだろうと思っていた ―― その名はアーディティア神群の神々が崇めている河から取った名だったので ―― が、それは間違っていた。彼女の名はサラスであり、彼女はサラスヴァティー河の流れを司る女神であり、また、水の女神アーパスの妹でもあった ―― これは全て、後から知って驚いた事なのだが)“偶然”などという言葉では到底説明のつかない、空恐ろしささえ覚える勘の鋭さを見せる事があった。

 それは定期的に会いに行っている訳ではないのに、俺が彼女のところに向かう時には必ず最初に別れたあの大きな木の下まで俺を出迎えに来る事であったり、どんな小さな傷であっても、怪我をして彼女に会いに行くと治療の為の薬が用意されている事であったりした。

 こういった事で驚かされることは確かにあったが、それでも俺はどうしても彼女がそんなに恐ろしい存在だとは思えなかった。
 何故なら彼女の視線、態度、俺に触れる手つきはあたたく、優しく、心地いいものだったから。
 それらに晒される時の嬉しさ、くすぐったさは俺が今までに一度も与えられた事のない感覚であり、それを与えてくれる彼女が悪の権化のような存在だといわれても、信じられない。というか、よく分からない。という思いが強かった。

 出会ってからどれ位の時が経った頃だっただろう、彼女から薬草の読み方や取り方を教わっている最中に、聞いてみた事がある。

 ルドラ一族が預知者を忌み嫌い、その存在を認めず無残に惨殺さえしている事実をどう捉えているのか、と。
 恨みのような気持ちがない訳ではないだろう、と。
 そして何よりも、危険である事が分かっているこの地に、どうして暮らしているのか、と。

 サラスは薬草を探す手を止めて視線を上げ、俺を見た。
 最初のうち、俺は彼女の視線を正面から受け止めていたが ―― 徐々に居たたまれなくなり、目を逸らしそうになった一瞬前、彼女はどこか哀しげに目を伏せて微笑むようにした。

「『ルドラ王の預知者狩り』の歴史を、憎んでいない訳ではないわ。この先、許そうとも思えないでしょうね」

 頼りなく伏せられた瞼の雰囲気とは裏腹にきっぱりとした調子で、サラスは答えた。
 彼女が言う“ルドラ王”という存在が直接自分を指している訳ではないと知ってはいたけれど、その言葉は俺の胸をぐさりと鋭く抉った。

 ゆっくり10数える位の間を取ってから、サラスは続ける。
「悲しい事だけれど、一度誤った事をしてしまったら、それまでどんなに良い行いをしていたとしても、それは簡単に覆ってしまうものなの。しかもマルト神群はそれを断固とした意志を持って行ったのよ。今の私のように神の意を受けて大地のあちこちを旅していた預知者を捕らえて惨殺した ―― これは決して許される事ではないわ。憎んでも憎みきれない事だわ」
「・・・それなら ―― それならサラス、俺の事だって許せない筈じゃないのか・・・?だって、俺は・・・」

 震えそうになる声を堪えて俺が小さく言うと、サラスは仄かに薬草の香りを纏った手で優しく俺の頭を撫でた。

「そうね、実際、そういう考え方をする人がいることも事実よ。でも・・・」
 と、言ってサラスは俺の頭から手を離して再び足元の草花を掻き分けた。
「・・・ルドラ、これを見て」
 促されて彼女の手元を覗き込むと、そこには数日前、根元の双葉を残して手折られた薬草があった。
 更によく見ると、その双葉の脇から初々しい新芽が覗いている。

「・・・サラス、最初に言ってたよな ―― 薬草は決して根本から引き抜いては駄目だって。
 双葉さえ残せば、再び芽が出るからって、そういう意味だったんだね」
 と、俺が言うと彼女はそう。と言って頷く。
「そして私は、人というものもこういうものであって欲しいと ―― こういうものでありたいと願うのよ」
「・・・え・・・?」
 意味が分からなくて、俺は首を傾げる。
「どうしても相手を傷つけなければならないとしても、そこに可能性を残さなければならないということ。そして手折られても手折られても、新芽を出す強さを持つこと」
 と、サラスは答える。
「ある程度以上の特殊な能力というのは、その能力を持たない人から見たら、気味が悪くて、奇妙で、恐ろしいものなのかもしれないわ。でも、その差異を暴力や殺戮という形で無くしてしまおうとするのは正しい事ではないのではないかしら ―― 何故だか分かる?」
 俺はサラスを気味悪いなんて思ってないよ。と強く思いながら、俺は尋ねられた問いに返す答えを探す。

 サラスはよくこうして、問題提起をした後で俺にその結論を出させようとする事があった。
 龍宮殿で長老や大人たちから教えられる物事は、その全てが断定的で、高圧的ですらあったが、そのやり方が聞くほうにとっては楽だった ―― 自分では何も考えず、言われた事をただただ鵜呑みにするのは、自分で考えろと言われるよりも遥かに簡単だったから。

 サラスと関わる事で学んだ事は多岐に及び、それは薬草の読み方であったり、簡単な薬の作り方であったりしたが、何よりも価値があったのは“どんなに細かい事柄であっても、自ら考え、行動することが重要である”という教えであったかもしれない。

「えっと・・・、暴力や力で押さえつける事はあくまでも一時的な解決であって・・・、根本的な考えや能力の差異を埋める事とは全く違うから・・・かな」
「そうね、私もそう思うのよ」
 と、サラスは言った。
「葦が踏まれても踏まれても立ち上がるように、抑圧されればされる程、抑えられた側は反発を覚えて抗おうとするものなのではないかしら ―― 押さえ込まれた力よりも更に強い力を込めてね。
 ルドラ一族はそれを学んでゆくべきなのではないかと思うの。私はねルドラ、これからあなたにはそういう事をきちんと考えていって貰いたいと思うのよ」
「・・・そういう風に一族を率いていけ・・・って、どうして言わないんだ?そうして欲しいんだろう?」
「それはあなたがそうしたい、そうするべきと心から判断したらそうすればいいわ。私はただ、あなたに色々な事をきちんと、自分の頭で考えて欲しいと願っているだけよ」

 きっぱりとサラスは答え、それからはもう何を言ってもその事について語ろうとはしなかった。

 その後、いくつもの季節が過ぎ去って行く中で一番変化したのは、ルドラ王としてあるべき姿を“演じる”事が出来るようになった自分自身であったかもしれない。
 一族が王という存在に望む揺ぎ無い強さと、傲慢なまでの冷徹さのヴェールを自在に操れるようになった事 ―― そう、この一族は王に寛容さや鷹揚さを求めなかった。
 王は強大な力を振るいたい時に振るえれば良く、それが可能な限りは多少理不尽な事を言っても誰もが俺の求めに否と言う事はなかった。

 時折とんでもない事を言ってみたりしたのだが(時期外れの果物を食べたいと言ってみたりなど)、皆、顔色も変えずに求めに応じるのが面白くもあり、情けなくもあった。

 その様にして手に入れた食物を、サラスに持って行く事もあった。
 俺の話を聞いてサラスは、全くとんでもないルドラ王もあったものね。と言って笑った。

「何とかして俺たち一族と天地両神一族を和解させられないものかな・・・、こんな風にコソコソするなんて、性に合わない。大体、悪い事をしてるわけじゃないのにさ」
 ある日俺がそう言うと、サラスは無言で笑い、その隣に座っていたナムチは、
「まぁ・・・、あまり逸って物事を進めても上手くはいかないでしょうね、その問題は特に・・・」
 と、控えめな言い方ながらも、そう言って俺の提案をやんわりと牽制した。

 ナムチは、マルト神群に籍を置く男であった。
 ある時、俺とサラスがメーダの森を散策していた所を彼に見られ、すぐさま俺は彼を殺そうとしたのだったが、サラスがそれを止めたのだ。
 その隙に彼はその場から逃げ ―― すぐに彼を追おうとした俺にサラスは、絶対に彼を殺してはいけない。と激しい調子で言った。
 が、俺はその忠告を聞く気はなかった。

 マルト神群の神々が天地両神一族、そして預知者をどれ程忌み嫌っているか ―― 俺は龍宮殿で過ごす時を重ねるにつれて嫌という程に思い知らされていた。
 彼等がルドラ王である俺を敬っているのは確かだったが、それと反比例するように彼らは預知者を激しく憎悪しており、その感情は俺を敬う気持ちによって宥めたり、抑えたり出来るような生易しいものではなかった。

 そもそも、ルドラ一族の気性の荒さは、一度火がついたらそう簡単に静まるものでもなく ―― 龍宮殿を守るように存在しているメーダの森に預知者が隠れ住んでいるなどという事実を知ったら、彼らが次にどんな行動を起こすかなど、火を見るよりも明らかだった。
 だからこそ俺は大事に至らない内に事実を知った者を消し、サラスを守らなければ、と思った。

 後にして思えばこういった、“邪魔だと判断したものは殺してしまえ”という思考はそのまま“ルドラ王”という存在を象徴するものであったかも知れない。
 だが何度か顔を見掛けた事があるだけの男の命とサラスのそれは、比べるまでもないように、俺には思えたのだ。

 身分はそれ程高くなかったものの、龍宮殿では相応の地位にある神々の下で長年働いていた彼は、俺の ―― “ルドラ王”の思考を正確に推し量っていたのだろう。
 彼は想像以上の素早さで龍宮殿に戻り、その後も上手く立ち回って決して1人になろうとはせず、気をつけて見ていても常に他の誰かと行動を共にしていた。
 まさか突然出て行って理由もなく彼を殺すわけにも行かず、やきもきしたのだったが、不思議な事に彼はメーダの森に預知者がいるという事実を公言しようとはしなかった。

 最初は俺を恐れ、保身を図っているのだろうと思っていたのだが、注意深く彼を見ているうちに、違和感を覚えた。
 彼が俺を恐れながらも、何かを伝えたいと願っているような素振りをしている事に気付いたのだ。
 同時に、サラスの“彼を殺してはいけない”という忠告が脳裏をよぎる。

 俺は適当な理由をでっちあげ、彼をさりげなく自室に呼んだ。
 俺の態度の変化を見てとっていたのだろう、素直に俺のもとにやって来たナムチは、その昔 ―― 彼が子供だった頃 ―― 迷い込んだメーダの森で大怪我をしたのを預知者に助けられた経験があるのだと告白した。
 その預知者と交流する事はしなかったけれど、以来ずっと、預知者が言われているような忌むべき存在などではないに違いないと思っていたのだ、と。

 一族の中で自分以外にそんな意思を抱いている人間がいようとは思いもしなかった俺達は、その日夜遅くまで話し込み、その後は彼も、仕事の都合がつく時には俺と共にサラスに会いにゆくようになったのだ。

 最初にナムチを連れて行った時にサラスが見せた心底嬉しそうな表情を ―― 何を言っても俺が彼を殺してしまうだろうと考えていたに違いない ―― 俺は一生忘れられないだろう。
 そしてこの事は、俺の人生で数少ない暖かな挿話の、一番明るい一場面となった。

 逃れ得ない罠のような悲劇が、静かに、しかし着実に我々の足元に忍び寄って来ていたのだ。