誓い

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 マルト神群の領地の南側を流れるストレージュ河河岸に、預知者が隠れ住んでいるらしいという噂が囁かれ始めたのは、それから数回の季節が過ぎ去った頃だった。

 ただ噂が流れただけならまだ良かった。
 預知者を嫌うマルト神群、特にその神群を取りまとめるルドラ一族は預知者を毛嫌いしていたので、愉快犯的にそういう噂が流れる事が、それまでにもない訳ではなかったから。
 しかし今回、その噂はいつまでたっても消えず ―― 消えるどころか、ストレージュ河に沿うようにして存在するピトリの森に預知者が隠れ住んでいるらしいという噂や、果てにはその預知者の姿を実際に見たと言う者まで現れ始め ―― 事態は“どうせいつもの流言だろう”と見過ごせない状況になっていった。

 森の内部を捜索する為に軍を動かす許可を求められ、俺はそんな流言などに惑わされていないで、小競り合いが繰り返されているアスラ神群が妙な動きをしていないか見張っていろ、などなどとさり気無く部下たちを諌めてみたが ―― 彼らが俺の言葉に耳を貸すことはなかった。
 繰り返しになるが彼らは他の何よりも、大袈裟ではなくアスラ神群を統べるヴリトラよりも憎んでいるのではないかと思ってしまうほどに、預知者を憎んでいるのだ。

 そうして行われた大規模な森狩りで、驚いた事に隠れ住んでいた10余名もの預知者が囚われた。
 隠れていたとしても1人か2人だろうと思っていた俺は、その報告を受けて心底驚かされる。
 何故ならサラスから、近くに他の預知者がいるなどという話はついぞ聞いた事がなかったのだ。

 激しく興奮するルドラ一族の戦神(いくさがみ)達を前にして ―― 龍宮殿に連れてこられてから数年、こんな風に多くの神々が本気で怒り狂う様を初めて目の当たりにしたのだ ―― 俺は途方に暮れる。
 どういう風に彼らを宥めればいいのか、どういう対応をすればいいのか、さっぱり分からなかった。
 怒りの海に浸りきった彼らを前にして茫然とするばかりの俺の元に、英雄神の神名(しんめい)を冠する男と、サヴィトリーという男がやってくる。

 サヴィトリーは俺が龍宮殿にやってきてすぐにつけられた側近で、右も左も分からない頃から俺の側にいて、面倒を見てくれた男だったのだが ―― そのサヴィトリーが、俺に1枚の書状を差し出す。

「・・・何だ、これは・・・?」
「あの預知者どもを、公開処刑する許可を頂きたいのです。こちらに王ご自身の手でご署名を」
 と、サヴィトリーは静かながらも底に怒りを秘めた声で言った。
「公開処刑・・・?」
 と、俺は繰り返す。
 サヴィトリーはきっぱりと頷く。
「そんな ―― 何も悪い事をした訳ではない者を何故公開処刑などにしなければならないんだ、よく考えてみろ。そんなのはおかしいだろう、そうは思わないのか、お前達 ―― 」
「何をおっしゃいます、王よ」
 平坦な声で、サヴィトリーは俺の言葉を遮った。
「ピトリの森は我が一族内では“父なる森”と言われる森ですぞ。あの預知者どもはその森を穢したのです。ただ簡単に処刑するだけでは到底罪に追いつきません」
「何を言って・・・ ―― 」
「ああまで激した一族は、生半可な事では収まらない ―― その位はもうお分かりなのではありませんか、ルドラ王」  それまで黙っていたインドラが、そう言って俺を真っ直ぐに見た。

 俺は ―― つい、視線を逸らしてしまう。

 以前から俺は、この男がどうも苦手だった。
 この男はどこか、人の ―― この場合は俺の ―― 考えていることの全てを見透かしているような気がするのだ。
 気のせいかも知れないが、この男が視線を送ってくる度、俺は反射的に彼の視線から逃げてしまうのだった。

 そんな俺の反応を見て、微かにインドラは溜息をついたように思えた。

「・・・追放とか幽閉とか・・・とりあえず、そういう処置では駄目なのか?」、と俺は咳払いをしてから提案してみる。
 しかしその提案もサヴィトリーの、“駄目です”というにべもない返答で否定された。
「過去に、そのように温情の措置をとって生かしておいた預知者を、逃がした不届き者がいたのです。それ以来、預知者を捕らえたらすぐに処刑するのが我が一族の通例となっておりますので」
「預知者を逃した者が、一族にいるのか?」
 インドラの説明に驚いて、俺は尋ねる。
「その者は、今どこに・・・?」
「そのような悪辣な裏切り行為を働いた者は、今頃その行動の報いを受け、辛酸を舐めているに違いありません」
 噛み付くような言い方で、サヴィトリーが俺とインドラの会話に割って入ってくる。
「そんな事よりもルドラ様、準備はもう万端、整っているのですから ―― 後は王の許可を待つばかりなのです。早く署名をなさってくださいませ」
「準備・・・?」
「勿論、処刑の準備でございます」
「そんな・・・俺はまだ許可していないのに、用意をしているなどと、よくも・・・」
「早くご署名を」
「俺の話を聞け!俺は絶対に許可しないぞ、そんな確たる理由も、相手の弁明さえ聞くことなく・・・ ―― サヴィトリー!!お前、何をしているんだ・・・!!」

 差し出された筆を払いのけて怒鳴った俺を平坦な目で見詰めたサヴィトリーが、その手で俺の名を書類に書き記し始めるのを見て、俺は愕然とする。
 慌てて書類をひったくろうとした俺の手から素早く逃れ、サヴィトリーは顔を上げた。

「・・・これで ―― ルドラ様、あなた様はようやく本当の意味で我が一族、引いてはマルト神群の王として認められる事になるでしょう。おめでとうございます、我が君」
「な、何をふざけた事を・・・!その書類をよこせ、サヴィトリー・・・サヴィトリー!!」
 俺の声に耳を貸さずに部屋を後にしようとするサヴィトリーに飛び掛ろうとした俺を、インドラが強い力で止めた。
「 ―― っ、離せ、インドラ・・・!離せよ!離せ!!」
 俺は渾身の力でもがき、彼の手から逃れようと抗ったが、インドラは少しも慌てる事無く俺の動きを封じ込めるようにした。
 サヴィトリーは1度も振り返らず部屋を出て行き ―― その足音が遠ざかり、やがて聞こえなくなり ―― 俺は、暴れるのをやめる。

 暴力をふるわれたわけではないのに、滅茶苦茶に打ちのめされた気分だった。

 そう、この瞬間に、俺はようやく悟ったのだ。
 それはとっくの昔に、もっと早くに分かっていなければならないことだった。気付かなければならないことだった。

 今まで周りの神々が俺の言う事に盲目的に従い、敬意を払っているように見えたのは、ただ表面上の振りでしかなく ―― 結局俺は未だに、ただ髪と瞳の色によってここに連れてこられただけの存在なのだ、と。
 髪と瞳の色が違えば俺などただの親に売られた孤児でしかなく、どうでもいいような事柄以外で俺の言う事をまともに聞く者など、一族には1人もいないのだ、と。

 力が抜け、茫として立ち竦む俺から手を離したインドラが口を開く、「処刑の様子をご覧になられますか」
 俺はインドラを睨み上げて答える、「見たいものか、そんなもの・・・!!」

 インドラは長い事黙って俺の顔を見下ろしていたが、やがて、そうですか。と頷いて静かに部屋を出て行った。

 10余名の預知者達が処刑されてから暫くたっても、俺はその衝撃から立ち直れなかった。

 用事があって自室から出ると、顔を合わせる神々はみな、判を押したように俺が素早い処刑の決断をした事を褒め称えた。
 そしてサヴィトリーが言った通り、戦神(いくさがみ)達が俺を見る視線の熱さが、処刑の前と後では全く違うのにも気付かされる。
 実際の経緯はどうあれ、俺が処刑の命令をした事が賞賛の的になっているのを知れば知るほど、なんだか本当に自らの手で刑を執行したかのように思わされる。

 夜中に顔の見えない預知者の首を笑いながら切り落としている自分の夢を見て、飛び起きる事さえあった。
 何が現実で、何が夢だったのかさえ分からなくなった。
 目覚めたそこは自分の寝台で、周りにはサラスのところに遊びに行くたびに持ち帰った植物が静かに深い緑の葉を茂らせていたが ―― ここにいるのが預知者を殺していない俺なのか、預知者を殺した俺なのかがはっきりとしないのだ。

「・・・おかしくなりそうだ・・・」

 両手で顔を覆って、俺は呟く。
 その俺の声は誰の耳にも届く事なく、空間に溶けた。

 遠くで俺を呼ぶ声が聞こえる気がする。
 誰かが俺を呼んでいるのだ ―― 預知者を殺すための許可と署名を求めて。

 あの書類には俺が署名したのだったか?
 サヴィトリーの強い要求と、インドラの重圧的な求めに応じて署名をしてしまった自分自身の汚さと弱さから逃れたいが為に、他人が俺の名を勝手に署名したような気になっているのだろうか?

 分からない・・・ ――――

 ―― と、その時、外から微かな物音が聞こえた。
 扉を叩く音だ。
 幻聴だと思ったのだが、そうではなかったらしい。

 何となくほっとしながら俺は立ち上がり、寝室を出て居間を抜け、自室の扉を開いた。
 そこにいたのは他でもない、緊張した面持ちをしたナムチだった。

「・・・どうしたんだ、こんな夜中に」、と俺は言った。
「いえ・・・王のご様子が気になったもので・・・大丈夫ですか」、とナムチは心配そうに言った。

 俺は無理矢理微笑んで見せ、ナムチを自室に招き入れる。
 暖炉に火をいれ、俺のために温かい飲み物を作っているナムチを見ているうちに、あの日 ―― “ルドラ王が預知者を処刑させた”日から霞がかかっていたような頭がはっきりしてきた。

「・・・なぁ、ナムチ」
「はい」
「お前、どう思っているんだ」
「・・・どう、とは?」
「ピトリの森に隠れ住んでいた預知者を、俺が処刑させたことを・・・」
 俺が言うと、火に向かっていたナムチは振り返り、静かに首を左右に振った。
「・・・そのように、ご自分を責めてはなりません。あの場合、他にどうしようもなかった事は分かっておりますし・・・サラス様も、王の事を心配しておられましたよ」
「お前あの後、サラスに会ったのか?」
 はい、とナムチは小さく頷いた。
「心配だったので、非番の日の夜に行ってみたのです。王に許可もなくと思ったのですが・・・事の経緯をお話ししておいた方がいいと思いまして。しかし・・・」
「もう、分かっていた・・・?」
「はい。大分前から“見えて”いたのだとおっしゃっておられました。私は・・・何も言えなくて ―― そんな預知を見ていたのに、普段と変わらずにいられたでしょう、これまで・・・、想像すると・・・堪らないです。
 生きて行く上で楽な事ばかりなどという事があり得ないのは知っています。しかし・・・余りに惨い能力だと、改めて・・・」
 最後、消え入るように言ったナムチが溜息をついて、出来上がった飲み物を俺に手渡してくれる。

 黙って受け取った椀に注がれた熱い飲み物を飲み干した頃、俺の心は決まっていた。

「 ―― ナムチ。お前に、頼みがある。危険な事だが」
 空になった椀を床に置きながら、俺は言った。
「私でお力になれる事があるのでしたら、何なりと」
 落ち着いた光を湛えた目で俺を見ながら、ナムチが答えた。