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「サラスヴァティー河を司る女神 ―― だって・・・?」
夜が明けたのとほぼ同時にやってきた英雄神インドラの報告を聞いた俺が繰り返すと、対するインドラは頷いた。
「捕らえられたのはサラスヴァティー河を司り、アーディティア神群では水の女神として名高いアーパスの実の妹だそうです。その者と通じていた一族の者も同時に捕らえられ ―― 彼は一旦自宅の方に幽閉し、預知者だけこちらに連れてくるという報告が入ってきております。恐らくもうそろそろ龍宮殿に到着するかと・・・」
そこまで聞いた所で、俺はインドラを押しのけ、自室を飛び出す。
長く陰気な暗い廊下を通り、幾つもの階段を駆け下りた俺は、龍宮殿から出た所でサラスと顔を合わせた。
身体のあちこちに引き摺られたり、何かで殴られたりしたような傷が見受けられたが、サラスの瞳には何故か、恐怖や杞憂の影は微塵も浮かんでいなかった。
「あの目を見てはなりません。彼らはあの気味悪い蒼の瞳で、見たものを呪い殺せると言われているのです」
と、いつの間にか俺の後ろに立っていたサヴィトリーが言った。
彼の進言を聞いて、俺は笑う。
笑いたくなどなかったが、笑わないでは正気でいられない気がしたのだ。
「それで ―― それで勿論、彼女を殺すのだろうな」、と俺は言う。
俺の問いにサヴィトリーが答えるより先に、言うまでもない、というような返答が居並ぶ戦神(いくさがみ)やサラスを捕らえてきた戦神(いくさがみ)達の口から湧き上がる。
それは、思わず両の耳を塞ぎたくなる程に強い憎しみや恨み・・・そういったマイナスの感情のみで構築されている声だった。
叫び出したい衝動を押さえ込みながら、俺はサラスを見る。
サラスは最初から、まっすぐに俺を ―― 俺だけを見ていた。
我々ルドラ一族が預知者に対して抱く終りの見えない暗い憎悪の思いと、彼女の高い預知者としての地位。
それらが同一の場所に置かれた時に起こるだろう事は、容易に想像がついた。
先だって処刑された預知者達の殺され方とは比べ物にならないような、酷い苦しみと痛みを伴う行為が成されるだろう。
そうであるならば、今、俺に出来る事はなんだ。
声に出さずに、俺は尋ねる。
自分自身に。
何度も。
彼女を助ける事は考えなかった。
こうなってはもう、そんな事が可能である筈はなかった。
ならば。
ならば・・・ ――――
ともすれば激しく震えそうになる手指を自ら叱咤しながら、俺は腰に差していた剣の柄に手をかけ、それを鞘から引き抜く。
「王、何をなさるお積りです」
と、インドラが落ち着いた口調で尋ねた。
「論じるまでもない。この汚らわしい預知者を、一秒たりとも生かしておけない」
と、言いながら俺はサラスの前に立った。
このような忌まわしいものの血で剣を穢してはなりません。と言って俺を止めようとするサヴィトリーを強引に押しのけ、王の手をわずらわせるような存在でもありますまい。などと言う戦神(いくさがみ)達の顔を、一通り眺めやる。
頭の芯が熱く痺れてゆくような感覚に身体ごと飲み込まれそうになるのを、死に物狂いで堪えながら。
特別睨んだりした訳ではない。
が、つい先日までは俺が睨んだ位では口を閉ざす事などしなかっただろう地位の高い戦神(いくさがみ)達までもが、まるで声帯を失ったかのように ―― 息すらしてないように ―― 黙り込んだ。
そんな一族の神々からサラスに視線を戻し、口を開く。
「最後に、言いたいことがあれば言え」
と、俺は訊いた。
「・・・何も、申し上げる事はございません」
と、サラスが答え ―― その答えの最後の一音を聞いた瞬間に、俺は手にした剣を斜め下に振り下ろす。
刃が皮膚を切り裂く感触、肉を分断する感触、骨が砕ける感触 ―― それらが剣を通して手に達し、腕を伝い、脳を満たし、やがて心に達する。
精神が破壊される感覚が、心を壊してゆく。
その音が、心が粉砕される音が、聞こえる気がした。
一瞬の時を置いて、心の欠片と共に生暖かいものが手や顔 ―― 身体中に、辺り一面に降り注ぐ。
倒れ伏したサラスが身に纏う変わった光沢のある白い服が、みるみるうちに紅に染まってゆく。
「サラス ―― いや・・・、この預知者の血に染まった髪を一房、アーディティア神殿に送り届けてやれ。“ルドラ王”より、との書簡をつけてな。残りはその辺に打ち捨てるなりして片付けろ」
剣を振り、刃にこびりついた血のりを払って鞘に納めてから、俺は命令する。
「・・・この預知者と通じていた一族の者の処分は、いかがいたしましょう」
殆どの戦神(いくさがみ)達が押し黙って動こうとしない中、雰囲気を変えずにいる2人 ―― 恐らく俺の本当の意図を見抜いている人物の1人であるインドラが、訊いた。
俺はその問いには答えずに踵を返し、足早に階段を昇って龍宮殿に入る。
執務室に入った所で俺に追いついたサヴィトリーが言う、「王。処刑の許可をいただきたく」
俺は執務室中央に立ち、ゆっくりと振り返る。
サヴィトリーの後ろにはインドラがおり、いつものように強く鋭い視線を俺に送って来ていた。
ここへ来て初めて、その視線を真正面から受け止める必死の努力をしながら、いつか絶対、何の気負いも無くこれを受け止められるようになってやろうと決心する。
「どうしても処刑しないではいられないんだろうな、お前らは」
「・・・あのように位の高い預知者と通じたからには、そうしなくては収まりますまい」
と、インドラが答える。
俺は再び、おかしくもないのに笑ってしまう。
「だったら、俺も一緒に処刑したらどうだ。分かってるのだろう、何もかも、この俺が・・・ ―― 」
「何をおっしゃっているのか、分かりません」
俺の言葉を遮って近付いてきたサヴィトリーが、机に3枚の書類を置いた。
「・・・これは何だ」、と俺は尋ねる。
「彼等の処刑の執行許可証です」、とサヴィトリーが答える。
「“彼等”?」
「彼 ―― 裏切り者であるナムチという者と、その家族の分です」
「・・・家族まで殺す必要はないだろう」
「しかし・・・ ―― 」
「聞こえないのか。必要ないと言っている」
「なりません、それでは後々・・・」
「うるさい!!」
身体の内部が煮えくり返るような衝動、それをもう抑えられずに俺は叫んだ ―― 瞬間、室内の空気の温度が急激に上がった。
閉め切られた室内に突如風が巻き起こり、あちこちに灯されていた焔が異様な程に大きく燃え上がり、その身を小刻みに震わせる。
「 ―― 王、お待ちを、どうか・・・っ!!」
部屋の入り口付近で俺とサヴィトリーのやりとりを無表情に眺めていたインドラが、血相を変えて室内に飛び込んでくる。
「どうか、どうかお気をお静めになって下さい・・・!サヴィトリー、口が過ぎる!控えよ!」
今まで礼を失する事はなかったものの、必要以上に俺を敬う素振りを見せなかったインドラが俺の前でサヴィトリーを叱責するのを聞き、今一瞬だけ俺の内から顔を覗かせたあの奇妙な灼熱を纏う力だけが唯一、一族が畏敬しているものなのだと理解した。
証拠に、俺が乱した空気の揺れを察知した戦神(いくさがみ)達が次々と執務室に集まってくる。
数秒間固まったように動かなかったサヴィトリーはやがて深く頭を下げ、うやうやしい動作でもって俺に筆を差し出す。
その手を無言で払いのけ、俺は上げた右手の人差し指の腹を自らの歯で噛み破った。
鮮血が腕を伝い落ちてゆくのと同時に、口の中に血の味が広がる。
血にまみれた指で署名を終えた俺は、それを持ってナムチを龍宮殿に連れてくるよう指示を出し、次いで明日の朝執行される事になったナムチの処刑の準備を進めていった・・・ ―― 。
深夜、全ての手配が終った後に、俺はナムチが入れられている地下牢へと足を向けた。
牢屋の前に姿を現した俺を見たナムチは驚いた様に両目を見開き、慌てて床に跪いて深く頭を下げる。
「・・・恐れながら・・・、このような場所に来られては、色々と差し障りがございましょう」
「大丈夫だ。気にしなくていい」
「そして・・・、ご期待に沿う事が出来ず、申し訳ございませんでした」
「それも、もういい」
俺は答え、牢屋の柵に近付いた。
「立ってくれ。お前は俺に跪いて頭を下げたりしなくていい」
ナムチは少し躊躇ったが、ゆっくりと立ち上がった。
視線と視線を結ぶ線が平行になってから俺は言う、「お前だけは助けたかったのだが ―― 無理だった。すまない」
すぐさま首を横に振ったナムチは、
「いいえ、ルドラ様。これは私が、自分で選んだ事です。最初に申し上げましたが、ルドラ様がやめろと言っても、私はこうしたでしょう」
と答え、服の下に隠し持っていた例の石が入った袋を取り出す。
「これをお持ちになって下さい、ルドラ様。恐らくサラス様は、この石をルドラ様に託したかったのではないでしょうか」
そうではないだろう。と思いながらも、俺は黙ってナムチが差し出す袋を受け取った。
「家族の事は、心配しなくていい。お前の家族だけは、なんとしても守ってみせる。例えどんなに恨まれていようと、それだけは・・・」
「恨むなどと・・・、確かに今はまだ理解していない部分もあるとは思いますが ―― と、言ってナムチは微かに笑った ―― 私がこんな事を言うのは何ですが、身分は低くとも、聡い女達です。私の気持ちを、いつか必ず理解するに違いありません。
夫であり父である私の行動によって脅かされた命を、ルドラ様が助けてくださった事も」
「それは違う」、と俺は言う。
「違いません」、とナムチは答えてから ―― 数秒の間を置いて尋ねる、「・・・サラス様は、いかがなされました・・・?」
「 ―― 俺が、殺した。未だ、この手から血の匂いが消えない」
と、俺が答えると、ナムチは苦しげに両目を閉ざした。
「・・・辛いご決断を、よく・・・」
「辛くなどない。俺は何も、辛くなどないのだ」
咳き込むように俺は言い、柵に軽くかけられているナムチの手を握った。
「俺は誰にも責められず、指示だけだして、のうのうと・・・、結果こんな所にお前達を追い込んでも尚、ここにこうして自由でいる。俺に辛いなどと言う権利はない」
「自由・・・?」
「そう、俺1人だけ・・・」
「違います。それは違う」
ナムチは俺の手を握り返しながら、小さく叫んだ。
「ルドラ様はご自身でご自身を責めていらっしゃる。外側から他人の手によって加えられる責めよりも、内側から自分を責める方が苦しく、お辛い事でしょう。
そして何より・・・、助けたかった存在を自らの手にかけたという事実を抱えて生きて行く事が、自由に生きてゆくという事になるでしょうか・・・?そうは、思えません・・・私にはそうは思えません、ルドラ様・・・ああどうか ―― 難しい事でしょうが、余りご自分を責めすぎずに・・・」
必死で言うナムチの切実な想いが、触れ合った手指から伝わってくる。
それはまだ“ルドラ”の名を継いで間もない頃 ―― 出会ったばかりのサラスが俺の頭に触れた時に伝わってきたものと、方向性が似ている気がした。
礼を言う代わりに更に強くその手を握った俺は、顔を上げる。
「刑は早朝に執行される事になっている。この俺が最後まで見届けてやる。
そして俺は誓うだろう ―― この身に浴びたサラスの血とお前の命にかけて、誰よりも、何よりも、全ての面において、強く、激しく在る努力をする事を。サラスを最後として、二度とこの地に預知者を近付けたり、ましてその血を流させたりしない。お前とサラスの死を、無駄にはしない」
俯き、唇を小刻みに震わせながら俺の言葉を聞いていたナムチは最後、崩れ去るようにして床に膝をついた。
「さらばだナムチ。お前の事は忘れない」
そう告げるのと同時にナムチに背を向けた俺は、彼の号泣の声を背後に聞きながら牢屋を後にした。
振り返る事はしなかった。
ナムチの目の前に捨ててきたもの ―― 明日、ナムチと共に処刑されるものを再び顧みる事は、彼らに対する裏切り行為であると感じたから。