ばたんと音を立ててドアが閉じられ、部屋に取り残された水無瀬は祐二のその不遜な態度に腹を立てるより先に力が抜け、玄関先で暫し呆然と立ち尽くしていた。

 行きずりにも等しい相手と関係を持った自分が、信じられなかった。
 酔っていたとはいえ、付き合っている訳でも好きな訳でもない男に抱かれるなど、絶対に出来ないと思っていた水無瀬だった。
 32年間かけて構築してきたアイデンティティーが、端から崩されてゆく気する。

 しかし・・・ ――――

 昨日も考えたことだが男に抱かれるのは本当に久々で、肌の表面が未だに熱を持ったざわめきに覆われているような感覚があった。
 片手の指をめいっぱい使えるほどの間、水無瀬は恋人という存在とは無縁の生活を送って来ていたのだ。

 ひとたびその手の店に顔を出せば水無瀬は本当にもてたが、恋愛経験は多くなかった ―― そう、祐二の指摘通り。
 元々慎重な性格で他人になかなか心を開けず、しかも全てにおいて自分と釣り合いのとれる相手でないと恋愛しようという気にならない。
 しかし人目を引く洗練された容姿と年間億単位の稼ぎをあげる株式トレーダーという肩書きで、幾度となく雑誌やテレビの取材を受けたことのある水無瀬と釣り合いがとれる人間など、滅多にいるものではなかった。
 しかも相手が男性限定というのでは、正に広大な砂漠から一粒の砂金を探し出そうというのに等しい。

 だがどうでもいい相手とする軽い関係など全く求めていなかった水無瀬は、自分が納得できなければどんな熱心な誘いであっても乗ったことはなかった。
 理想を曲げ、無理や妥協をして相手を捜そうと思ったことはただの一度もない。
 恋愛に妥協をするくらいならば、一生一人で生きてゆくので構わないと水無瀬は本気で思っていたのだ。

 そんなロマンチックな ―― 祐二流に言うと視野狭窄気味な ―― 水無瀬の想いとは裏腹に、その日以降、祐二は予告もなくふらりと姿を見せては水無瀬をQueenへと連れ出し、その後決まりごとのように水無瀬のマンションに泊まって行くようになった。
 しかも何故かそれは雨の日が多かった。いや、多かったというより、ほぼ9割9分9厘の確率で、祐二は雨と共にやってきた。

 一番最初の夜に雨が降っていたからだろうか?意外にセンチメンタルな部分もあるんだな。などと思ったが、理由は他でもない、雨そのものだった。
 その後判明した祐二の職業は美容師だったのだが ―― 友人と赤坂でヘア・サロンを経営しているらしい。因みに水無瀬が何かの拍子に現在の祐二の髪形をドレッドと言ったら、これはドレッドじゃない、ブレイズというんだ。と馬鹿にされた。激しくどうでもいいというか、どっちでもいい ―― 彼の趣味がトライアスロンで、晴れている自由時間はほぼ100%トレーニングに費している。雨の日は外でトレーニングが出来ないのでジムやスポーツ・クラブでお茶を濁してから、水無瀬のところに来ているらしいのだ。

 つまり俺は暇つぶし要員か、と思いつつも祐二との関係を断ち切れないのは、やはり人肌が恋しかったせいだ。  図々しい祐二の行動をぴしゃりとはねのけられないのは、そのせいだ。
 そう自覚する度、水無瀬は憮然とした。

 2人でいても、実りある会話をする訳でもない。
 人目がある場所では機関銃の如く言い合いになるのに、2人きりになると ―― それは大体、水無瀬のマンションでセックスした後なのだが ―― Queenで交わしている会話が嘘のようにお互い言葉が出ず、酷く気まずい。
 こんな不毛な関係に溺れるのは自分らしくないという自覚は、水無瀬の胸に常にあった。
 が、祐二の燃え盛るような熱い肌と荒々しさが、水無瀬の冷静さを失わせるのだ。

 秋が終り、本格的な冬の到来が感じられるようになったある日、水無瀬はにやにやと笑う祐二の前に所在なげに立っていた。

「なんかさ。普段オカタイ恰好ばっかしてるアンタがジーンズとかはいてると、それだけでそそられるな。映画なんかもうどうでもいいから、奥に行って押し倒してぇ」
「・・・、・・・お、お前は盛りのついた犬か。馬鹿なことばっかり言うんじゃない」
「んんー?顔が赤いですよー?」
「・・・っ、もうお前、うるさい・・・!上映時間まで余裕がないんだから、行くならさっさと行くぞ」
 微妙に血の気がのぼってしまったのを誤魔化すようにそっぽを向き、水無瀬は言う。

 数日前、映画を見に行かないか?と祐二が水無瀬を誘ってきた。
 Queenで水無瀬が他の客と連作映画の話で盛り上がっていたのを覚えていたらしく、シリーズ最終話が封切りになったのにあわせての誘いだった。
 因みに雨が降っていない日に、約束して祐二が水無瀬の元を訪れるのはこれが初めてだった。

「はいはい、行きますよ。じゃあお靴をお履きください、お姫さま」
 と、祐二は玄関部分で立ったままの水無瀬に言った。
 最近祐二は水無瀬が高飛車な態度を見せると必ず“お姫さま”などと言って水無瀬をからかうのだ。
「それ、やめろって言ってるだろう」
「照れるなって」
「照れてない、怒ってるんだ」
「アンタ、いっつも怒ってんじゃん」
「言っておくが、お前の前でだけだ」
「ん?それってもしかして、特別に俺を意識してるって告白?」
「・・・どういう飛躍の仕方だよ・・・アホか・・・」
 と、言い合いながら、水無瀬がマンションのドアをロックしようとした、その瞬間。

 携帯が祐二を呼んだ。
 自然な動作で携帯の液晶を確認した祐二は、一瞬小さく顔をしかめてから、電話に出る。

「マコトか?俺に電話なんて、珍しいな ―― ・・・おい、マコト?どうした?」
 その後、突き詰めた表情で話を聞いていた祐二が電話を切るのと同時に水無瀬は訊く、「チャンス到来か?」
 訝しげに顔をあげて祐二は訊き返す、「・・・え?」
「“弱みにつけ込む”んだろう?」
 と、水無瀬は軽い口調で言った。
「・・・いや、ってか、でも」
 と、祐二は流石に躊躇う素振りを見せる。
「・・・ああもう、ここはいいから早く行けよ、ずっとこの時を待ってたんだろうが」
「・・・じゃあ・・・、なんかすげぇ泣いてるみたいだから、とりあえず様子だけ・・・、あ、なんならアンタも一緒に ―― 」
 と、祐二が言かけたのを水無瀬は適当に遮って切り上げ、部屋に入ってドアを閉めた。
 ドアの向こうでは祐二が暫く何か言っていたようだったが、やがて重い足音が遠ざかってゆく。
 それを確認してから水無瀬はため息をつき、買い物にでも行くかな・・・。と、ひとりごちた。