ごく控えめな音量で流されるクラシック音楽の旋律だけが支配する部屋に、ドアベルの音が鳴り響いた。
手持ちぶさたに雑誌のページをめくっていた水無瀬はゆっくりと立ち上がり、モニターで玄関先を確認する。
モニターの向こうには、祐二が立っていた。
このまま無視してしまおうかどうしようか、水無瀬は悩んだ。
が、無視したところで何も変わらないのだからと、玄関へと重い足を向ける。
「何か用か」
チェーンを外さないまま薄くドアを開け、水無瀬は言った。
「・・・んん、用って言うか ―― さっきは悪かったな」
ドアの隙間から水無瀬の姿は見えなかったが、まず祐二は謝った。
「別に」
と、ドアの陰から水無瀬は答えた。
何の感情も窺えない平坦でそっけない水無瀬の口調に祐二はぐっと言葉に詰まったが、すぐに続ける、「なぁちょっと、顔見せろよ」
水無瀬は何も答えない。
その後長いこと、祐二は返事が返ってくるのを待った。
しかしいくら待っても返答どころか、ドアを隔てたそこにいるはずの水無瀬の気配や息づかいすら薄く引き伸ばされてゆき、やがて全く掴めなくなってしまう。
透明人間であってももう少し存在の気配のようなものが感じ取れるに違いないと、祐二は思った。
「もしもーし?あんた、そこ、いるんだろうな?」、と祐二は確認した。
そこでやっと、水無瀬が軽くため息をつくような微かな気配があった。
「 ―― もうお前とは会わない」、と水無瀬は言った。
「・・・あ?」、と祐二は言った。
ドアの陰から姿を見せないまま、水無瀬は続ける。
「何となく意味もなく、惰性的に続けてきてしまったけど ―― お互い好きでもないのにこんなことをしていても、何の発展性もないだろう。純粋に時間が無駄になるだけだ。俺は基本的に無駄なことは嫌いなんだ。凄く」
「・・・無駄?」
と、祐二が繰り返した。
「お前との関係を表現するのに、無駄という言葉以外、どんな言葉があるっていうんだ」
と、水無瀬は吐き捨てるように言った。
「お前が俺みたいな“オジサン”を好きじゃないように、俺もお前みたいに男のくせに長髪を大量の三つ編みにしてぼろきれ寸前のジーンズを穿いているようなチャラチャラした男は好きじゃない。最近の俺はたぶん、どうかしていたんだと思う。お前みたいなのとこんな風にダラダラ ―――― 」
自分が口にしていることがどういう意味として捉えられるものなのか、きちんと把握出来ないまま水無瀬がそこまで言ったところで、がしゃん、と耳に障る、嫌な音がした。
その空気を引き裂くような大きな音に驚き、水無瀬は口をつぐんで息をのんだ。
続いて荒々しい足音が遠ざかってゆくのが聞こえ、それが消えてから、水無瀬は恐る恐るチェーンを外し、ドアの外を見てみる。
そこにはむろん祐二の姿はなく、代わりに粉々に割れたワインが ―― 1週間ほど前に2人で飲んで味がいいと盛り上がった、2002年産のドイツ・ワインが ―― 無惨な姿で転がっていた。
*
個人の世界で何があろうと変わりなく地球は回り、日は巡る。当然だ。
祐二と嫌な別れ方をしてから1ヶ月、水無瀬は特に何の変わりもなく、日常生活を送っていた。
祐二と会わなくなり、ふと空虚な気持ちになってしまう瞬間があることは確かだった。
が、だからといってよくあるドラマや映画のように、仕事で派手なミスを犯して失ったものの大きさに打ちのめされる ―― みたいなことはなかった。
いつも通り的確に相場を読み、部下にきめ細やかな指示を出し、その月は最終週に入って早々前年度比20%増の月間目標額を達成していたくらいだ。
この不況時に素晴らしい。流石だな、水無瀬。頼りにしてるよ。等々と上司から口々に労われ、特別手当の支給まで約束された。
何の変りもないどころか、右肩上がりに現状は良くすらなっている。
別になんてことはないじゃないか。
雨の日の休日、妙に張り切って部屋中を片づけながら、水無瀬は思った。
久々にセックスをしたことで気分が高揚し、なんとなく手放すのが惜しいような錯覚に陥っただけだったんだ、と。
しかし片づけの最中、部屋のあちこちから出てくる祐二が置き去りにしていったものの嵩が増えてゆくに従って、水無瀬の心は徐々に無言になってゆく。
パジャマやら部屋着やら下着やら歯ブラシやら ―― ひとつひとつはどうということもないものばかりだったが、思った以上に祐二の持ち物が部屋のあちこちに残されていた。
ひとまとめにしたそれらを、捨てようと思うのに捨てられない。
まだ着られるのに勿体ないしな。と考えた自分に、すかさず別の自分が、いくら勿体なくても、着る人間がいないんだから仕方ないじゃないか。と言い ―― それを聞いた水無瀬は力なくソファに座り込んだ。
そのままぼんやりと天井を見上げ、水無瀬は考える ――――――
そう、祐二はもうここへは来ない。
雨が降ろうが降るまいが、トレーニングが出来ようが出来なかろうが関係なく、二度とこの部屋には来ない。
構わない、それでも全然構わない。
自分が好きなのはスマートで落ち着いた、大人の男だ。
これまで付き合ってきた男たちはみな、そういう相手ばかりだった。
強引で口の悪い無神経な若い男など、一緒にいても疲れるだけだ。
だからこのまま祐二のことなどきれいさっぱり忘れてしまえばいい ―― いや、思えば忘れる努力をしなければならないほど、水無瀬は祐二のことを知らなかった。
細かい住所も電話番号も、出身地がどこでどう育ったかとか、誕生日も家族構成も、何も知らない。
祐二とはこの部屋とQueenでしか会ったことはなかったし、そもそも祐二が水無瀬のフルネームをきちんと知っているかすら、今となっては疑問だ。
でも例えそうだとしても、それでも構わなかった。
当然だ、自分たちは恋をしていた訳ではないのだから。
あの男は俺のことなど好きでもなんでもなく、自分だってあの男のことなど、好きでもなんでもないのだから・・・、・・・ ――――
必死でそこまで考えた水無瀬はどうにも堪らなくなり、交差して組んだ両腕に顔を埋める。
そうしてそのまま長いこと、水無瀬は顔を上げようとはしなかった。