「・・・おい、喧嘩売ってんのか、史也(ふみや)」

 と、祐二が言った。
 その低くゆっくりとした口調を聞き、俺は内心驚くのと同時に少し緊張した。

 祐二は基本的に、あまり怒らない。出会った頃から一貫してそうだ。
 祐二と付き合うようになって2年弱、ただ付き合っている時も一緒に暮らすようになった後も、喧嘩をすることは大小、多々あった。だが俺は祐二が声を荒げて怒ったところをほとんど見たことがない。
 大分にある祐二の実家に訪れる度、父親とは毎度毎度、何だかんだと言い争っているが、あれは本気で怒っていると言うよりも親子の濃いめのコミュニケーション、愛情表現の一環という気がする。
 しかし今の祐二の口調には明らかに、本物の怒気が滲んでいた。
 分からない人には分からないだろうが、俺には分かる。
 そしてそれは史也という小賢しい男にも伝わったのだろう、彼は一瞬目を見開いてから眉を下げて首を竦め、
「ごめん、ちょっとびっくりしすぎてふざけただけ。そんな怒らないでよ祐二ってば、謝るから ―― ごめんなさい、怒ってます?」
 と、最後、俺に向かって訊いた。
「・・・別に。気にしなくていい」
 と、俺は微笑んだまま言った。
 ここで不機嫌な様子を見せたら明らかに俺の負けである。
 とはいえ彼が祐二と俺との間に波風を立てたいと望んでいるのだとしたら(十中八九そうだろう)、俺が不機嫌になろうがなるまいが、現時点では彼が圧勝状態であるのは明らかなのだが。

「じゃあ一緒に飲みましょう?仲直りってことで」
 史也はにっこりとして、言った。
「・・・俺は構いませんよ、そちらのみなさんがよろしければ」
 彼に倣って目元だけで笑い返して、俺は言った。

*

 ぱっと見でかくてむさい奴らばっかりですけど、気のいい奴らばっかりですから、気遣いは無用ですよ。と言った健介の言葉通り、彼らはまるで元からの友人ででもあるかのように俺を受け入れた。
 みな祐二と同じくらいの年齢でいかにも今時の若者という雰囲気だが、そこはやはり懐の深い祐二の友人だと思わせる ―― むろんひとりを除いて、ということになるのだが。

 その唯一の例外は当然のように俺の隣に座り、俺に話しかけてきた。
 ほとんどが当たり障りのない ―― どこに住んでいるんですか、勤め先はどこにあるんですか、日本橋なら新宿から20分くらいですよね、それなら通勤が楽でいいですね、等々 ―― 話題であったが、祐二が他の人との会話に気を向けだすと途端に会話に険が現れる。
 やり方が露骨すぎてある意味すがすがしいが、まともに対応していると疲れるので、俺は適当に流しつつほとんど彼の話を聞いていなかった。
 それよりは普段間近にすることのない祐二と友人たちの会話の内容を、聞くとはなしに聞いていた方がずっと楽しい。
 が、恐らくそんな俺の態度に焦れたのだろう、祐二が席を外したのと同時に、
「ところで祐二は完全にアウトドア派ですけど、水無瀬さんってどうなんですか?ぱっと見、いかにもインドア派って感じですけど」
 と、史也は言った。
「・・・まぁ、確かにそうだな」
 と、俺は言った。
「でもこの間、ちょっとつき合わされたけど」
「つき合わされた?どこかに行ったんですか?」
「大菩薩」
 と、俺は言った。
 そう、今年の5月の連休、しつこい祐二の誘いに押し切られるような形で行ったのだ。
 義務教育期間内に登らされて以降初の登山できつかったが、今が盛りだというツツジが綺麗だった。
 最初のうちは休日にどうしてわざわざ疲れに行かなきゃならないんだ、と思っていたが感じる疲れは仕事で感じるそれとは違う心地よい疲労で、登山を趣味とする人の気持ちが少し分かる気もした ―― 自ら率先して趣味にしようとまでは、思えなかったが。
 しかし俺の返答を聞いた史也は、
「大菩薩ぅっ!?」
 と叫んで、再び吹き出した。
「・・・何がおかしいんだ」
 今回ばかりは流石にむっとした雰囲気を隠せずに俺が言うと、待ってましたと言わんばかりに史也が意地悪い横目でちらりと俺を見てから、目の前におかれたグラスをゆっくりと取り上げて唇にあてる。
「・・・あー、ごめんなさい。でもそんな無理しても意味ないと思いますよ」
「・・・無理?」
「だって2千メートルとかの、しかも大菩薩みたいなユルい山、祐二にとっちゃ散歩にもならないですよ。祐二が普段どんな山登ってるか、知ってます?最近じゃ祐二、登山だけじゃなくクライミングもやってて、先月北岳のバットレス登るの見て、プロが才能あるって誉めてたくらいなんですよ。始めて1年足らずなんて信じられない、って。それ聞いて俺もう、やっぱり祐二ってすっごい格好いいなって思って。それなのに・・・大菩薩って。おっかしー」
「・・・・・・」
「冷たいこと言うようですけど、無理してつき合っても水無瀬さんは疲れるし祐二はつまんないしで、なぁんの意味もないんじゃないかなー・・・、あ、祐二、お帰りー。グラス空じゃん、何か飲む?」
 と、史也が差し出したメニューを受け取った祐二と入れ違いに俺は席を立った。
 史也がしてやったりという顔をしているのは分かっていたが、少し一人になって気持ちを落ち着かせたかった。
 しかし上手く行かないときというものは、なにをどうやっても、上手く行かないものなのだ。

 完全個室の居酒屋の廊下は薄暗く入り組んでいて、トイレから戻る途中、俺は間違った角を曲がってしまった。
 言葉もなくうんざりと来た道を戻る途中、聞こえてきた会話に足が止まる。
 会話の中に自分の名前が聞こえたせいだ。

「いやしっかし、意外だったな祐二の今回の相手・・・水無瀬っていったっけ?」
 と、その声は言った。
 どうやらそこは喫煙所になっているらしく、うっすらと煙草の匂いがしてきた。
「ああ、確かにこれまでの祐二の相手とは全く毛色が違うよな、いかにもインテリって感じで。史也も言ってたけど」
「あー、史也なぁ・・・、ありゃあ失礼すぎだったよな。水無瀬さんがさっすが、大人!ってカンジの対応してくれたから良かったけど」
「祐二もあれ、相当ムッとしてたろ・・・なぁ、ところで祐二と史也って一時期、結構いい感じだったよな?つき合ってたのかな」
「さぁ、どうなんだろうな。そうなのかなってみんな言ってたけど・・・分からねぇな」
 と、そこで誰かが新しい煙草に火をつける音が聞こえ、つられるようにいくつかのライターの石が擦れる音がする。
「・・・でもなぁ・・・、ああいうのは色々と難しいんだろ、きっと」
「・・・難しい?難しいって、何が?」
「だってよ、ああいうのってやっぱりどうしたって少数派じゃねぇか。異性同士だって好みの相手探すの、そう簡単じゃねぇのに」
「つまり、妥協してるって?」
「いやいや、そう言っちまうと身も蓋もねぇけどさ・・・、じゃなくて、普通よりは好み通りの相手と付き合える率は低くなるだろうし、あんまり理想を追ってもいられないんだろうって話だよ。まぁ水無瀬さん、普通に良さそうな人だからいいと思うけどさ・・・ ―――― 」

 そこまで聞いたところで、廊下の向こうに人の気配がした。
 はっと気を取り直した俺は足音を忍ばせ、慌ててその場を離れた。