その足で俺はいったん、店の外に出た。
 そして店の脇の路地で、店を出る際に買った煙草をくわえて火をつける。
 紫煙を吸い込んですぐ、指先がじんと痺れる感覚があった。

 煙草を口にするのは大学時代に興味本位で吸って以来、実に十数年ぶりのことだった。
 大学卒業後入社した企業が外資系だったため、それを機に煙草はすっぱりとやめた。
 喫煙は出世を妨げるというし(外資系企業ではそうらしい、実際のところは分からないが)、そもそも煙草は身体にも悪いしお金はかかるし、吸えないとイライラしてくるのに分煙化が進んで吸える場所は少ないし、喫煙席にいても近くの嫌煙家に嫌な顔をされるしで、いいことはひとつもないと思ったからだ。
 だがそんな煙草にも、他には代え難い利点がある ―― そう、それは人前で堂々とため息をつけるという点である。

 つらつらとそんなことを考えつつ、俺はその場で心行くまでため息をつき、気持ちを落ち着かせてから立ち上がる。
 そして1本だけ吸った煙草のケースを店の脇のゴミ箱に投げ入れ、店へ戻った。

*

 今度は迷うことなく戻った部屋は、週末の連休の予定に関する話題で盛り上がっていた。
 先月末に祐二が、9月の連休前に店を休んで泊まりがけで出かけると言っていたのを、俺は思い出す。
 今日この店に入る前に史也が“連休の予定で決まってない点がある”と言っていたのも、そのことなのだろう。

「あ、そうだ、良ければ水無瀬さんも来ませんか?」
 と、祐二の隣に腰を下ろした俺にそう言ったのは、確か田代という名の男だ。
 人なつっこいほほえみを浮かべて誘うその声には、聞き覚えがあった。
 先ほど“妥協は言いすぎだけれど、理想ばかり追っていられないんだろう”と、いうようなことを言っていたのは多分彼だ。
 黙って彼の顔を見た俺に、田代は続けて説明する。
「えっと、祐二と俺ら、金曜から甲斐駒に行くんですけど、その後台場でバーベキューする予定なんですよ。そこから参加する奴も結構いるんで、もし予定がなければ是非」

 ・・・これはいったい、どういう風に捉えればいいんだろう、と俺は困惑する。
 インテリ然としていて、いかにもインドア派であると評されたのを、否定はしない。
 何度生まれ変わっても俺は、今目の前にいる男たちのようには ―― 日に焼けて、筋肉逞しく、全てにおいて(食欲や動作など)豪快な ―― なれないだろう、分かっている。
 それをお互い分かってるのにわざわざ誘ってくると言うのは・・・嫌味なのか?嫌がらせなのか?それとも何か他の、俺には到底考えもつかないような(外見だけでなく、彼らとは思考回路の作りも根本から違う気がする)他の意図があるのだろうか・・・ ―― 分からない。
 考えれば考えるほど、分からなくなる。

「・・・やっぱ、連休はもう予定、入っちゃってますかね?」
 俺の沈黙をどう解釈したのか、少し困ったような、申し訳なさそうな顔で田代が言った。
「いや・・・、そういう訳ではないですが」
 と、俺は躊躇いつつ答える。
「ただちょっと今、仕事がばたばたしていて ―― スケジュールを確認してみます。いつまでに返事をすればいいのかな」
「バーベキューなんで、当日予定が空いたら飛び入り参加とかで全然構わないですよ。人数多い方が、楽しいですしね」
 と、斜め前に座っていた健介が、にこにことして言った。
 その時点では参加する気は五分五分、という感じだったのだが ――――
 横合いから史也が、
「でもまぁ、そんな無理しなくてもいいですけどねぇー」
 と、にっこりとして(相変わらず目は笑っていない)言うのを聞いた瞬間、万難を排して、何が何でも参加してやる、と密かに決意した俺であった・・・。

*

 連休中日のお台場、潮風公園。
 前日の天気予報は曇り後雨の予報で、俺は力一杯、雨になるようにと祈っていた。
 しかし俺のその祈りはカケラも天には届かなかったらしく、天気は朝から完璧な快晴だった。
 9月も半ばだというのに無意味に晴れ渡った公園のアスファルトには陽炎がたち、建物の陰ひとつない。
 申し訳程度に植えられた木々が作り出す木陰は、容赦ない太陽の光に限界までその身を縮こまらせていた。

 行きたくない、と朝、カーテン越しにも分かるやる気満々の太陽の光を見て、俺は心底思った。
 どうしてこの文明の発達した時代に、しかもこの陽気の中、何を好んで屋外で火を使って、肉など焼いて食べなければならないのだ?さっぱり意味が分からない。

 内心でそんな悪態をつきつつ、それでも無理をしてこの集まりに参加した理由は他でもない、そう、やはり俺は不安だったのだと思う。
 待ち合わせよりも少し遅れて集合場所に姿を見せた俺に向かって開口一番、
「アウトドアは二度とごめん、じゃなかったのか」
 と、言った祐二に、
「アウトドアもいいなと最近思い始めたんだよ」
 などと、白々しい返答をしてしまうほどに。(因みに祐二は「へぇ、そりゃあ初耳だなぁ」などと呟いていた。もちろん俺はそれをきれいさっぱりと無視した)

 こんな風に他人に合わせて自らの趣味嗜好や行動を変更するなど、昔の俺ではあり得なかった。
 ましてや楽しくもないのに周りに合わせて楽しい振りをするなんて、数年前の ―― 祐二に会う前の ―― 自分が見たら、羞恥のあまり卒倒するかもしれない。
 それでも俺は、これ以上祐二の周りの友人につまらないとか妥協があるなどと言われたり、思われたりしたくなかった。
 俺がする努力など、何の意味もないのかもしれない。いや、きっとそれは絶対に、何の意味もないのだ。
 それでも、出来る限りの努力を、してみずにはいられなかったのだ、・・・ ――――

「おい、あんた、顔色悪くねぇか?少し向こうの日陰で休んどけ」
 どれくらいの時間が過ぎた頃か、ふいに後ろから腕を掴まれて振り向くと、そこには顔をしかめた祐二がいた。
「えー、大丈夫ですか?だから無理はしない方がいいって言ったのにー」
 と、俺の隣に陣取り、隙を見てはチクチク嫌味を言っていた史也が、俺の顔を覗き込んで言った。

 ここまでやったのに、この期に及んで弱味を見せてたまるか。
 そう思った俺は大丈夫だよ、とぞんざいに言って祐二の腕を大きく振り払ったのだが ―― 多分その、突然の大きな動きが、いけなかったのだ。

 腕を回した瞬間、視界がぐらりと揺れるのが分かった。

 あ、これはまずい。

 そう思ったのと同時に、さあっと頭のてっぺんから冷たい感覚が足下に降りてゆき ―― そこで俺の記憶はあっけなく、ぷっつりと途絶えた。