目覚めてまず感じたのは、薄い消毒液の匂いだった。
 その次に胸にわき起こったのが、重苦しい自己嫌悪だ。
 現状と記憶の最後を繋ぎあわせるには、そう高度な想像力を必要とはしなかったから。

 情けない、と思った。
 普段日光に晒される生活をしていないとはいえ、数時間外にいただけで倒れるなんて情けなさすぎる・・・。

 そう考えながら身体を起こそうとした瞬間、がらりとドアが開き、
「水無瀬さん気付かれましたか。ご気分はいかがですか? ―― ああ、無理をしないでもう少し横になっていた方がいいですよ、顔色がまだ優れないようですから」
 と、言いながら病室に入ってきたのは、恰幅のいい年配の看護婦だった。
 その後ろには祐二の姿も見える。
「・・・はぁ・・・、ええと、俺は・・・?」
「極度の過労ですよ。あなたここ最近、相当無茶な生活をしていたでしょう」
 と、言いながら、看護婦は俺に熱を測るように促した。
 反論の余地はなく、俺は促されるまま受け取った体温計を脇に挟む。

 そう、確かに連休前の数日間(つまり祐二が泊まりがけで出かけて行ったのとほぼ同時だ)、俺の仕事量は普段の倍にふくれあがっていた。
 元々はそんな予定ではなかったのだ。
 だが先週の水曜日、俺が講師をする予定になっていたセミナーの開催場所の大手銀行本店に金融庁の監査が入り ―― 思えばそれが全てのケチのつきはじめだった。
 そういった監査は全ての銀行に対して定期的に行われるものだが、事前連絡の類は一切ない。
 そろそろ来る頃だという予測は出来るし、実際、セミナーの打ち合わせの雑談の中でそういう話も出ていた。
 しかしまさかセミナーの当日にバッティングするとは、誰も思わなかったのだ。
 だがセミナー準備中の会場に入ってきた役人の、
「必要書類をここに持ってくるように」
 という鶴の一声でセミナー会場にと用意されていた部屋は使用不可となり、セミナーは延期せざるを得なくなった。
 しかもその直後、会社の同僚数名の乗ったタクシーが高速道路で玉突き事故に巻き込まれた。
 死者が何人も出た大きな事故で同僚たちの誰も命に係わるような怪我をしなかったのは不幸中の幸いであったが、事故にあった同僚全員が何らかの怪我をしており、仕事の出来る状態ではなかった。
 しかもそのうちの一人はTVにも出演している有名な証券アナリストで、彼が受けていたセミナーや講演会の仕事の半数近くが俺に回ってきたのだ。
 俺が勤めている証券会社には腕のいいアナリストやトレーダーが複数いるが、メディアに顔を出している者は多くない。
 ゆえにそういったふれこみで受けた仕事は、ある程度メディアに顔出ししている人間に集中して振り分けざるを得なかったのだ。
 事情が事情だけに文句を言う気はなかったが、元々それほど余裕なく組まれているスケジュールに、イレギュラーな仕事を何件も入れ込むのは楽ではなかった。
 しかも一口で“株取引の方法を指南する”と言っても顧客ごとに得意分野や売れ筋銘柄は全く違い、会場に赴いてマニュアル通りに話をすればそれでいいというものではない。
 つまり事前に担当である同僚が作った顧客分析の資料を読み込んだり、自分なりに先方の得意銘柄を分析し直したりする作業は不可欠であり、ここ数日の俺はまさに、不眠不休の勢いで働いていたのだ。

 俺が反論しなかったので、やっぱりね。という顔をした看護婦は、
「ここへ運ばれて来た時は血圧があまりにも低すぎて、先生が驚いて機械を変えて測り直していたくらいだったんですからね。何事も身体が資本なんですから、無理は禁物ですよ」
 などと説教をしながらてきぱきと手際よく俺の熱と血圧の数値を確認してカルテに書き込み、点滴のパックを交換し、腕に刺さった注射針の様子を確認した。
 そして、“点滴が終わったら帰ってもいいですが、顔色がもう少し良くなるまでは静かに横になっていた方がいいと思いますよ”と、俺と祐二に向かって言いおき、病室を出て行った。
 看護婦の姿と声が消えると、途端に病室はしんとした。

「・・・、・・・あー・・・、ええと・・・ごめん」
 中くらいの沈黙を破って、俺は謝った。
 病室のドア近くの壁に凭れるように立っていた祐二はそこで、ひょいと小さく、肩を竦める。
「本当になぁ、胆が冷えるってのはああいうことを言うんだって、実地で学んだぜ。ったく、あんま心配させないでくれよ、マジで」
「・・・・・・ごめん」
 と、俺は再び謝る。
 身体に力が入らないのと同様、思考回路も正常に働いておらず、それ以外の言葉が思い浮かばなかった。
 そんな俺をまたしばらく、黙って見ていた祐二だったが、やがて小さくため息をついてから近付いてきて、ベッドの脇の椅子に腰を下ろす。
 そして言う、「あのさぁ、あんたさぁ、俺の前で無理してどうすんの」

 俺はやはり、何も言えない。
 思考から声帯から、何らかの反応を示す為に必要な身体の器官の何もかもに、力が入ってゆかない。
 全てが二度と再び、使いものにならないのではないかと思うほどだった。

 祐二はそこで小さく笑ってさりげなく伸ばした手で俺の指先を握り、
「俺はな、普段外面取り繕って、隙なんか全くありませんって顔して完璧に見せてるあんたが、俺の前でだけ言いたい放題、好き勝手し放題してんの見て萌えてんだよ。あんたそういうの、ちゃんと自覚してるか?」
 と、噛んで含めるようなゆっくりとした言い方で、言った。