オマケ短編 ~ あなたがそこに、いるだけで

「コータさん、お先に失礼しますー」
「お先でーす」
「ああ、お疲れさん。気をつけて帰れよ」
「はーい」

 いつも通りのそんなやり取りをして帰ってゆくアシスタントたちの背中を見送ってから、俺は手にした缶コーヒーの口を開ける。
「・・・はぁー・・・」
 冷たいコーヒーが喉を通り、胃に染みてゆく心地よさに、思わずため息がでる。
 昼飯すら立ったまま食べなければならなかったりする(そもそも食べられないこともよくある)美容室の1日が無事に終り、その後無人の店を見ながらコーヒーを飲む瞬間が、俺の至福の時だった。
 それ、いくらなんでもささやかすぎるだろ!と店を共同経営する安藤祐二などは言うが、ほっとけよ、と思う。
 そういう一見ちっぽけに見える幸せを積み重ねていけるかいけないかというのは、長い人生において想像以上に重要なことだ。と、俺は思う。個人的に。たぶん。

 が、その日の俺のささやかな幸福の時間は、長く続かなかった。

「祐二、いるー?」
 と、店の裏口から勝手知ったる様子で顔を出したのは、友人の青木史也(あおきふみや)だ。
「・・・あ、幸太さん、こんばんは。祐二は?」
「祐二なら、今日は休みだよ」
「え?祐二、水曜休みだったっけ?」
「いや、今週は俺と休みを交換しただけ。なんか約束してたのか?」
「そうじゃないけど、健介(けんすけ)と近くまできたから、一緒に飲まないかなと思って・・・幸太さん、行かない?せっかくだから俺、幸太さんにちょっと訊きたいこともあるんだけど」
 と、意味深に言う史也の顔をちらりと見てから、俺は壁に掛けてあるカレンダーに目をやる。
 そして病院で看護婦をしている奥さんが今日は準夜勤であることを確認し、
「・・・分かった。行くよ」
 と、答える。
「やった。じゃあ、すぐ行ける?」
 と、史也が聞くのに俺は頷き、売上金やら何やらを店の金庫に、飲み干した缶コーヒーの缶をゴミ箱に、それぞれ放り込んでから、店を後にした。

*

「ところで今日はどうして祐二、休みなの?数日前に会ったときには、何も言ってなかったのに」
 赤坂サカス側の店でとりあえずビールで乾杯してから、史也が俺に訊いた。
「詳しいことは聞いてないけど・・・でも今日は水無瀬さんが有給とって休みだって言ってたから、そのせいじゃないか」
 たこわさびをつまみながらそう答えると、史也は不満げに鼻を鳴らし、俺の前に座っていた健介は眉根を寄せる。
「まだ具合悪いのかな・・・祐二、なんか言ってた?」
「具合が悪いってなんだよそれ、何の話だ?」
「・・・うん・・・、いや、実はさ・・・」
 と、そこで俺は、先週末お台場で水無瀬さんが過労で倒れた一件を聞いた。

 祐二は自分が同性愛者であることを友人知人にカミングアウトしているが、他人に恋人の話をすることは殆どない。
 恐らくそのあたりが祐二なりのけじめの付け方なのだと思うが、水くさいな、とも思う。
 俺は水無瀬さんとは顔見知りなのだから、話くらいはしてくれてもいいのに、と。

「どうやら水無瀬さん、先週ものすごく仕事が忙しかったみたいでさ。でもきっと俺らが強引に誘ったから、無理して来てくれたんだと思うんだ」
 と、健介は心底心配そうに眉根を寄せて言ったが、その横で史也はそっぽを向いている。
 こういう分かりやすい点が史也の美点でもあるのだが、どうしようもない悪い点でもあるよな ―― そう思いながら、俺は何気なく口を開く、「ところで史也、俺に訊きたいことって?」
「・・・今の状況と流れを見たら、訊きたいことなんて一目瞭然じゃん。祐二のことだよ」
 と、史也はつきだしの山クラゲをつつきながら言う。
「あれって、どういうことなのか全然わかんなくて。祐二がしてた片思いにケリがついたら俺、絶対にその後に潜り込んでやろうと思ってたのに・・・あんなつまんなそーな人にあっと言う間に攫われちゃって、くやしいったら」
「なんだよお前、まだそんなこと言ってんのか」
 と、健介が呆れたように言い、史也の頭を軽く小突いた。
「とーぜんっ!祐二みたいに格好いい人、滅多にいないもん」
「でもお前、つい最近まで彼氏いるって言ってたろ?」
「そりゃあ・・・ずっと独り身でいるなんて寂しいし。でもここ何年かはいつも変わらず、本命は祐二だけだよ」
「・・・なんだそれ、調子いいよなぁ史也は。相変わらず」
「いいでしょ、別に ―― だからさ、この際幸太さんに、アドバイスもらえないかなーと思って。協力してくれない?上手く行ったらたっぷりお礼するから、お願いっ」
 と、ひとしきり健介とやりあってからくるりと俺の方を見て、史也が言った。
「・・・協力・・・アドバイス、ねぇ・・・まぁいいけどな」
 と、俺店員にビールのお代わりを頼む。
 そして俺の答えを聞き、機関銃のような勢いで礼の言葉をまくしたてようとする史也を、俺はさっと手を上げて止める。
「落ち着けよ。俺がお前に出来るアドバイスは、たったひとつだけなんだからさ」
「構わないよ、どんな小さなことでも!なになに、教えて!」
 興奮した史也はテーブルをひっくり返しそうな権幕で、ずいっと俺の方に身を乗り出した。