10 : 一緒に寝ても
とにかく大げさなくらいに勢いをつけないと、到底今からやろうとしている事を実行する決心を持ち続けてなどいられない。
けれどここまできたら恥ずかしいも何もあるもんか!と拳さえ握り締めそうな勢いで、俺はソファに移したものを全てベッドに戻す。
一応ささっとベッド・メイキングしてみたり、自分の格好を整えてみたりしてからベッドの端に腰を下ろした。
言うまでもないけれど、ドキドキする。
今日の午後(正確には昨日の午後だが)はドキドキしっぱなしだった訳だけれど、あれのは序章だったんだっていうレベルで、ドキドキする。
身体中、あちこちに心臓があるみたいだ。
心臓が口から飛び出そうっていう表現、あれはこういう経験をした人が作り出した言葉なのだろう。
状況は多分、こんな情けない状況じゃなかったに違いないけど・・・。
これから例え何が起きても、コトがすべて終るまでは心臓が定位置で鼓動を続けてくれますようにと必死で祈っている真っ最中に、香椎先生がバスルームから出てきた。
彼はベッドの端に座っている俺を見て、不思議そうに両目を眇め、
「あれ、寝てなかったのか?」
と、言った。
俺は黙っていた ―― 考えてみれば、一大決心をしてはみたものの、その決心をどう彼に伝えればいいのかさっぱり分からない。
好きな人を食事に誘うのさえ昨日が初めてだったっていうのに、それから何時間も経たない内にこんな事をしようとするなんて、飛躍するにも程がある。
足し算引き算もろくに教わっていない幼稚園児に、分数の計算を教えようとするようなものだ。
でももう、今更後には引けない。
引きたくもなかった。
「・・・、・・・えー・・・」、と俺は何とか一応、声を出してみる。マイク・テストみたいに。
「・・・・・・何?」、と香椎先生が訝しげに首を傾げる。
「ええっと・・・、そのソファ、固くて寝辛そうかな、と、思って」
「・・・ああ、心配してくれてありがとう、でも大丈夫。病院の椅子なんかよりはずっと柔らかいからね ―― と香椎先生は微笑んだ ―― 一応かけるものだけ貸してくれる?」
そう言って先生が引っ張った掛布団を、慌てて引っ張り返しながら俺は叫ぶ、「あの、俺、別に構いませんけど!?」
微かに眉根を寄せて香椎先生が尋ねる、「・・・構わないって・・・何が?」
尋ねられた俺は ―― ごくりと唾を飲み込んでから、口を開く。
「・・・、一緒に、寝ても、構いませんが」
俺の言葉を聞いた先生の顔から一瞬にして、表情という表情が消えた。
その後部屋に流れた沈黙は、軽くもないけど重すぎもせず、短くもないけど長すぎもしなかった。
つまり、それは何だか、とても奇妙な雰囲気の間だった。
やがて香椎先生は緩慢に、数回首を横に振った。
「さっきも言ったが、病院で流れている俺に関する噂を、知らない訳じゃないんだろう」、と香椎先生は言った、「あれは嘘じゃない。基本的に全部、本当のことだ」
どうしてか分からないけれど、段々と落ち着きを取り戻してきていた俺は(恐らく人間が一度に自覚出来る緊張や焦りの限界を超えてしまったんだろう。限界を超えた後の感情のグラフは、平坦な軌跡しか描けないのかもしれない)、肩をすくめて見せる。
そして言う、「 ―― だから?それが何だっていうんですか?」
そう答えた俺の声は、自分でも驚くほど落ち着き払って聞こえる声だった。
俺の返答を聞いた香椎先生は一瞬の半分くらい、驚いたような表情をしてから、さっと俺から視線を逸らした。
が、すぐに俺に視線を戻し、
「それが何だ、ってさ・・・、こういう状況下において興味本位かなにか知らないが、そんな事を軽々しく口走っている時点で、どうなんだよ、君は。
職場でみんな俺のことを、クールだとか落ち着いてるとか言っているようだが、俺だっていつまでもどこまでも紳士でいられる訳じゃない」
と、言った。
“軽々しい”という単語を聞いた瞬間に泣きたくなったけれど、俺はぐっとその涙を押さえ込む。
そしてこの場合、そう思われたほうが好都合なんだから、いいじゃないか。と強く自分自身に言い聞かせながら顔を上げ、笑う。
無理やり顔に浮かべたその笑いが、本当に笑いに見えるものなのかは、自分でも分からなかったけれど。
「 ―― こんな場所でこんなこと言われて、その意味が分からないようなら、そんなの紳士というよりネンネってやつじゃないんですか?少なくとも俺は、そう思いますけど」
わざと挑戦的な言い方でそう言った俺を、先生は暫くの間まじまじと見詰めてから ―― ゆっくりとした足取りで、俺の前までやってくる。
そして確かめるように訊く、「そこまで言うからには、男と寝たことはあるんだろうな」
俺は答える、「元々、異性に興味がもてないので」
当然。という口調を取り繕ってそう答えた俺を見下ろす香椎先生が、唇の右端を綺麗に歪めて、笑った。
その笑いを見た刹那、何故か少し、怖くなった。
言ってしまった事を、やろうとした事を、後悔したとか、今更躊躇ったとか、そういうんじゃない。そうじゃない。
決して、そうじゃないのだけれど・・・彼の顔に浮かんだ笑みを目にした瞬間、人間の第六感が危険を知らせるというか、背筋がすうっとうすら寒くなるような感覚を覚えたのだ。
感じた直感に従って無意識に身体を後退させようとした俺の肩に、ゆっくりと延びてきた先生の手が置かれる。
普通に手をかけただけなのに、その手はずしんと奇妙な重みがあるような気がして、それも不思議だった。
凪いでいた心臓の鼓動が再び、急激に速度を増してゆく音が耳元で聞こえ、そこに先生の低い声が混ざりこむ。
「 ―― それじゃあ俺は最初から、何も遠慮する必要はなかったって事なのか。面白い・・・」
その言葉を最後まで言い切るより先に、先生は俺をベッドに押し倒した。