9 : 自分への言い訳
そうしてなんとなく、なし崩し的にバスルームに向かった俺は・・・そこに備え付けられている色々な物を目にして暫し茫然とした後、なるべく視線を床に固定しながらシャワーを浴びた。
そして、
世の中にはまだまだ知らないことが一杯・・・というか、分からない事が山ほどあるんだな・・・。
と、一種悟りの境地のような心地になりながら部屋に戻る。
香椎先生はファイルに挟まれた書類(学会とかの報告書なのかもしれない)を読むのに没頭していたようで、俺がバスルームから出てきたのに1、2分間くらい、気付かなかった。
バスルームの扉の影に隠れるようにして、俺はそんな彼の様子に、見惚れずにいられない。
きっちりと整った額から鼻梁へのライン、
額に落ちかかる真っ直ぐな黒い髪、
理知的な薄い唇、
ワイシャツ越しからも分かる、しなやかな筋肉のついた身体、
そう、そして ―― 一番最初の時にも思った ―― ファイルのページを繰る、綺麗な長い指・・・
本当にどこをどう切り取ってみても、本当に綺麗で、格好のいい人だった。
同僚や友人は俺を見て、芸能人の誰だか(名前は忘れた)に似ていて格好がいいとかかわいいとか言うが ―― 俺は自分の見た目が、わざわざ口に出して言われるほどいいものだとは思えなかった。
ゆるいパーマをかけたように落ち着きのない髪も、大きな目も、白い肌も、細い身体(どんなに頑張って運動してみても、外見で分かるような筋肉がつかないのだ)も、そうでなければ良かったのにと何度思ったかしれない。
それがないものねだりであるということは、もちろん分かっていたけれど ―― でも、とにかく、本当に格好がいいというのは、香椎先生のような人だと俺は考えていた。
陽介は香椎先生を称して、遊び人タイプなどと言っていたが、そんなことはないと思う。
いや、彼がもてることは実際に見て、知っていたけれど、これだけ格好がよくて、更に超がつくような有能な医者という地位にいれば人がよってくるのは当然だろうし、・・・・・・
と、そこでふいに ―― 俺の視線に気が付いたのだろう ―― 顔を上げた香椎先生は表情一つ動かさずに、
「ああ、君はベッドを使っていいよ」
と、ファイルの角でベッドを指し示した。
「え、でも」
「掛け布団だけ一枚貸してくれれば、それだけでいい」
問答無用とばかりにきっぱりと言って立ち上がった香椎先生は、俺なんかに目もくれず、バスルームに入って行ってしまった。
部屋に一人残された俺は、彼に言われたとおり掛け布団や枕を一組ソファの方に移動させてから、ベットに入った。
こんなの申し訳ないと思わなくもないけれど、これ以上あれこれと押し問答して香椎先生を煩わせるのも嫌だった。
でも横になったからと言ってすぐに眠れる筈もなく、俺は寝転んだまま部屋中をぐるりと見回してみる。
何度見ても趣味が悪い・・・とうんざりするが、他人からしてみれば、お前が言うな。と突っ込まれるところだろう。
そう、香椎先生をここへ誘ったのは他でもない、自分なのだから ―― いや、連れ込んだんだと、香椎先生は言っていた・・・。
ああ・・・、詳しく想像してみればみるほど、自分のとんでもなさに落ち込まずにいられない・・・。
香椎先生はああして普段どおりに振舞ってくれているけど、内心は“なんてとんでもない奴なんだ”と、呆れているに違いない。
俺が逆の立場だったらきっと、多少なりとも、呆れた気持ちになるだろう。
香椎先生は優しいからそういう素振りを見せず、落ち込む俺をフォローしてくれるのであって・・・。
限界も見切れずに酔っ払ったいい大人の事なんか、普通ならタクシーに放り込んでくれれば上等で、あとは野となれ山となれって感じで、放っておくだろう。
相手を好きなんだと自覚してすぐ、その恋に未来がなくなったと確信出来てしまうなんて、哀しすぎる。
しかもそれが相手に恋人がいるとか、そういう外的要因ではなく、自分がした事が要因になってしまったのも虚しい・・・。
はぁ。と大きく溜息をついてから身体を仰向けにすると、天井の鏡に映る自分自身と目が合った。
天井の俺は、ったく、どうしようもない、馬鹿な奴。と言わんばかりの視線で、俺を見下ろしている。
ああ、ああ、その通り、否定はしないよ。俺はどうしようもなく、馬鹿な人間なんだ。
と、答えて自嘲気味に笑うと、天井の俺も笑った。
でも天井の俺が浮かべる笑いは自嘲的な笑いではなく、まるで下にいる俺を馬鹿にしているような、嘲笑的な笑いに見えた。
なんだよ、そんな笑い方をしなくてもいいじゃないか。
俺が馬鹿なのはもう重々自覚してるし、香椎先生だってそれは分かってるよ・・・。
と、思ったけれど ―― ふと、でも ―― そう、でも、そういう事じゃない・・・というか、それはもうどうでもいいことなのかもしれない。と思い直した。
天井にいる俺が、ベッドの上に寝転んでいる俺に無言で訴えかけている通り。
これまでの人生で自分から積極的に人を、しかも気になっている人を食事に誘った事なんかないんだとか、ましてやラブホテルに入ったのなんか生まれて初めてなんだとか、そんなのは俺にしか分からない事で、自分で自分に対してする言い訳に過ぎない。
どんなに必死で言い訳してみた所で、俺は食事に誘った相手を、酔いにまかせて自分からホテルに誘うような人間だという事実は厳然としてそこにあって、決して消えないのだ。
だったら ―― そう、だったら、こんな事になって未来がないって自覚したのなら、とことん馬鹿な人間になりきってしまえばいいじゃないか。
今更ちっちゃい事をぐちゃぐちゃと取り繕ってみたって、傍から見たら何も変わりゃしない。
そう決意した俺は勢い良く、ベッドの上に起きあがった。