11 : 愛されなくても構わない
こんな普通じゃない始まり方をしても、最初はやっぱりキスから始まるんだな、と俺は思った。
それは今までに経験したどんなキスとも違うキスで、これからもきっと、二度と経験しないだろうというようなキスだった。
心の表面に書いてあるようなものではなく、蟻が作りあげたみたいに細かく入り組んだ、心の迷路の奥底にある秘境の湖に湛えられている水の色を探りあうようなキス。
すっごく緊張して、ドキドキして、俺は指先ひとつまともに動かせない。
昨日まで ―― 昨日どころかつい数時間前まで、この俺が香椎先生とこんな事になるなんて少しも、夢にも思っていなかったのだ。
そう考えるとこんなのは、現実っぽく彩色された夢のような夢みたいに思えた。
そんな極限に近い緊張の中、俺の脳裏にある映画のセリフが浮かぶ。
恋人じゃない相手とは身体は交しても、くちびるにキスしたら駄目よ。
希望の光の見えない、恋に堕ちてしまうから ――――
確かそんな台詞があったように記憶している。
コール・ガールをしている主人公と、敏腕だけど冷徹な会社社長とのラブ・ストーリー。
こんなの有り得ないだろ、と思わず笑いだしてしまいたくなる、ご都合主義的なシンデレラ・ストーリー。
陽介の恋人である沙紀(さき)さんと行った映画館でその映画を見ながら俺は、そんなものなのかな、と思ったのだが ―― 今、分かった。
あれは何もかも全て、どこまでも全部、嘘っぱちだ。
だって俺は今、“一度だけでいいから”なんて願いだけを胸に隠し持って、先生とこんな事をしている。
そしてそうしている自分の事を馬鹿だとは思うけれど、後々この行動を後悔したりはしないだろうと確信もしている。
彼の事が凄く好きだけれど、愛されなくても構わない。
期待なんか、何もしない、していない。
俺達の間は、キスをしたってなにひとつ変わったりなんかしない。
当然だ、キスをしたから光が消えたんじゃない。
だからもちろん、その逆だってあり得ない。
はなからそんなものは見えていないし、探そうとも思っていない。
だからこの後のセックスだって、平気で出来る。
ただ、出来ないのは ―― してはならないのは、きっと、抱きつくことだ。
俺をベッドに押し倒し、くちづける彼の背中に両手を回す、こういう時に当たり前のようにしていたその行動を、俺はどうしてもとろうと思えなかった。
抱き合うこと ―― つまり相手を抱きしめて、その相手に抱きしめ返して貰うことは、キスとは全く違う。
そう、それは愛し合っていないと、出来ないことなのだ・・・。
そんな悲しい知識を俺に教えてくれた人がもたらすくちづけは、最初は柔らかく、唇の皮膚の感触を確かめるようなものだった。
けれどそれは徐々に、激しさと深さを増してゆく。
幾度も幾度も角度を変えて続けられるくちづけの激しさに、段々と思考が乱され、侵され、ここがどこなのかとか、自分が誰と何をしようとしているのかさえ、分からなくなりそうだった。
こんなキスは、誰ともしたことがなかった。
こんなキスがあるなんて、想像したこともなかった。
キスだけでこんな風になりえるなんて、知りもしなかった。
耳の斜め下あたりから差し込まれた彼の右手が、俺の髪の合間をさまよっている。
彼の指先はなにかに縋りたいのだと囁くように訴えている気もしたけれど、そんなのは考えすぎに違いないと思った。
どう考えても、何かに縋りたいと思っているのは俺の方なのだ。
でも、ああ、それにしても、なんというキスをする人なんだろう?
今まで経験してきたキスは、ただ唇を触れ合わせるだけの、挨拶のようなものであったのだと強烈に悟らされる。
これから先、一体自分がどうなってしまうのか ―― 考えると怖くて堪らなかった。
キスだけで、たった一回の、最初のキスだけでこんな風になってしまっているのに・・・この後のことなど、想像出来るはずもない。
沸き上がる未知なる恐怖につき動かされるように、俺は彼の胸に両手をつき、その身体を押し返そうと足掻く。
しかしどんなに力を込めても、彼の身体はびくとも動かない。
嵐のようなキスに呼吸を遮られ続けていた俺が酸素を求めて口を開く、その瞬間を待ち構えていたかのように、彼の舌が口内に滑り込んでくる。
口内を蹂躙されているだけ、たったそれだけのことなのに、心臓がぐっと肉眼では見えない小さな一点に収縮してゆく。
呼吸が遮られているという理由からだけじゃない息苦しさに意識が囚われている間に、髪に差し込まれているのとは逆の手がバスローブの合わせ目を探り ―― その手は利き手じゃないとは思えないような自然な動きで俺の肌からバスローブを取り払う。
抵抗する暇なんか、これっぽっちもなかった。
そこでようやく長いキスが終り、荒くなってしまっている呼吸を必死で誤魔化そうとしながら上げた視線が、再び自分のそれと合ったので慌てて視線を逸らす。
明かりを全て消しておけばよかったと後悔したけれど、何もかも後の祭りだ。
首筋に押し当てられた彼の唇がゆっくりと肩へと移動してゆき、バスローブを取り去った彼の手がわき腹から腰のラインを辿った瞬間 ―― ギクリと身体が緊張し、一気に肌が粟立つ感触があった。
「 ―― や、ぁ・・・っ・・・!」
反射的に彼のバスローブの袖口を掴んで引くと、彼は上げた視線をすうっと細め、
「・・・嫌か?」
と、尋ねて小さく笑う。
「・・・あ、あの・・・・・・せんせ・・・・・・」
「残念ながら、“直”」
俺の声を遮り、微笑んだまま、先生は言う。
「今更後悔しても、もう遅い。遅すぎる」
言い切った彼の手が俺の肌から離れてゆき ―― 唐突さを訝しく思う間もなく、いつの間にか背後に回されていた彼の指が、さりげなく俺の後孔をなで上げた。
「あぁあ、っ・・・!」
不意打ちに近い彼の動きに、思わず高い声を上げてしまった俺は慌てて手で口を押さえる。
そんな俺の反応を見た香椎先生が、浮かべていた笑みを深くするのが分かった・・・。