Fight C Luv

15 : 1ヶ月後

“暇があったら連絡して”と言われたその土曜日、俺は結局、香椎先生に連絡を入れなかった。

 忙しい1日ではあったけれど、暇がなかったという訳ではない。

 その日 ―― 俺は9時にセットした目覚ましに合わせて起床した。
 着替えてから顔を洗い、3種類に分けておいた洗濯物(因みに3種類の内訳は、1.白いもの 2.色柄もの 3.クリーニングに出すもの、という具合だ)の第1陣を洗濯機に入れて、その間に簡単な朝食を作って食べて片付けて、部屋中に掃除機をかけて回った。
 一応洗い終わったらしい(四角く折りたたんで投入したタオルが四角く折りたたまれたまま脱水されて出てきたのを見て以来、俺は全自動洗濯機が洗濯完了したという主張を、信じられないでいる)洗濯物を取り出して、第2陣の洗濯物を入れた洗濯機を回しながら床を水ぶきし、冷蔵庫の中のものを全て出して中を拭いて悪くなっているものを捨て、必要と思われる食材のリストを作成する。
 洗濯を完了したと洗濯機サイドが主張する色柄ものをヴェランダに干してからもう一度買い物リストを見直し、その後駐車場から引き出した車で近所のスーパーに向かい、書き出したリストと、プラスアルファの買い物を済ませて買ったものを車にせっせと積み込み ―― 仕事柄自由時間が変則的な為、俺は休みになると秋の終りのしまりすの如く、食材を買い込んでしまうのだ ―― スーパーの隣にあるクリーニング店に第3陣の洗濯物を預けて家に帰り、買ってきた食材の世話をして(梱包を剥がしたり、トレイから出してジップロックに入れ替えたり、豆腐をパックから出してボウルに移し変えたり、等々)、その後近くにある居心地の良い喫茶店で昼食をとりながらコーヒーを飲んだ。  そこで本を読みつつ2杯のコーヒーを堪能した後、家に帰り、乾いていた洗濯物を取り込み、・・・・・・

 ―― と、ここまで読んでもらえればもう分かるだろうが、忙しいとは言え上記の中には“絶対に今日中にやらなければいけない”というカテゴリに属する行動はひとつもない。
 俺はただ、とにかくあれこれと動いて、思い出すたびに身体の中心がざわめくような、あの日の香椎先生との記憶から目を背けたかっただけだ。

 あの一夜の次の日、俺は夕方すぎから準夜勤務で ―― そう、俺が勤務している病院は、臨床心理士にも夜勤があるのだ。むろん深夜にカウンセリングをする訳ではなく、事務方の手伝いや入院病棟の見回りをするのだが ―― 勤務中、何度か香椎先生と病院内ですれ違った。
 けれど先生は俺の事なんかてんで気にしておらず、目が合っても意味深な視線を送ってくるでもなく、極めて自然に俺から目を逸らした。
 廊下の片隅に置いてある消火器が視界に入った時と、さほど変わらない雰囲気で。

 そんな風に最初の1週間をやりすごされると、あの夜の事は俺の妄想だったのか?とさえ思えて来て、とてもじゃないけれど、自分から連絡を入れようなんて気持ちにはならなかった。
 いや、流石にあの一件が妄想じゃなくて事実なのは分かっているけれど(一応)、でも彼の態度から、あれはやはり一夜限りの出来事としておくべきだと、俺は思っていた。
 そもそも最初から“1回だけ”と考えて先生とああいう事になった訳で ―― 彼が俺に連絡先を教えてくれたのには驚いたけれど ―― 一瞬、彼との関係を今日だけの事にしないでおけるのだろうか?などと考えてしまったけれど ―― あのメモもきっと、一時のきまぐれとか、そういうものだったのだろう、と。

 それに香椎先生が特別なつきあいをするのに向いた人ではないという気も、していた。
 以前陽介が言ったほどに香椎先生がたちが悪いとは思わないが、医者という肩書きを持つ男の人が異様にもてるのは確かであり、香椎先生の場合はそこにあの完璧なルックスが加算される訳で ―― 彼がどれほどもてるか、想像も出来ない。

 そんな香椎先生に ―― ずっと憧れていた香椎先生に ―― “連絡をしようと思えば、いつでも連絡出来る”可能性のツールを持っているというだけで俺自身、結構満足していた。
 例の夜の一件が夢のような色彩を強めて行けば行くほど、遠くからそっと眺めているだけだった香椎先生の電話番号やメールアドレスを、この俺が知っているなんて信じられない、凄いよ俺。などと、素直に感動する気持ちが強くなっていた。

 他の人から見たらこんなのはきっと、馬鹿みたいだと思われるだろう。
 しかしこれが事実なのだから、致し方ないのだ。

 そうこうしているうちにあの夜から1か月余りが過ぎ去り ―― その頃になると、あの夜の出来事が真実だったのか夢だったのか、俺は更に分からなくなっていた。

 未だ財布の奥に仕舞ってある手帳の切れ端だけがあの夜が紛れもない真実だったのだと証明していたけれど、もしそれがなかったら俺は恐らく、あれが真実だったという確信を持てなくなっていたと思う。

 最初の1、2週間はすれ違うごとにドキドキしたりしていたけれど、1ヶ月も経つと先生との関係は以前とほぼ変わらなくなり、すれ違いざまに挨拶を交わしても必要以上に身構えたりしなくなった。
 もちろん先生は最初から全く以前のままだったので、俺だけが落ち着くのに1ヶ月もかかったというだけだ。

 俺としてはあんな経験は正真正銘初めてで、驚きというか仰天というか・・・とにかくひたすらパニックの連続だったのだけれど ―― 一夜限りの相手にああいう事をさらりと(俺としては“さらり”どころの騒ぎではなかったが、香椎先生にとってあれは大した事じゃないんだろう・・・多分)やってのけるなんて、最初から太刀打ちできる相手じゃなかったのだと思う。
 香椎先生がバスルームから出てくるのを待っている間、“こんな事を言って、驚かれるとか、呆れられるとかするだろうな”なんて不安になっていた自分が、今考えれば愚かしい。

 冷静になって思い返してみれば、あの時の香椎先生は、それほど驚いていないようだった。
 もしかすると“一度だけでいいから”なんて台詞を口にして香椎先生に迫るのは、男女問わず、たくさんいるのかもしれない。

 ・・・凄いよなぁ・・・。
 って、何が凄いのか、自分でも分からないけど・・・。
 世界が違うっていうか・・・、やっぱり・・・、凄いよなぁ・・・。

 ―― と、とりとめのない考え事を脳裏の片隅の隅の方で展開させつつ、その日の深夜、俺は見回りで病室を回っていた。

 見回りは特別問題なく終り、最後に病棟の戸締まりを確認してから報告のためにナース・ステーションに向かっていた俺は、廊下の曲がり角で出会い頭に誰かと思い切りぶつかってしまう。
 深夜の廊下には自分以外誰もいない(患者さんはスリッパを履いているので、もし歩いてきていた場合はちゃんと分かる)と思い込んで、油断していたのだ。

「す、すみません・・・・・・!」
 と、俺は慌てて謝った。

 患者さんを突き飛ばしてしまったりしたんだったらどうしよう!?と、焦ったのだけれど、見上げたそこに立っていたのは患者さんではなく ―― 今の今まで俺が考えていた、香椎先生その人だった。