Fight C Luv

16 : 掴まれた手首

 そこで香椎先生と約1月ぶりに、周りに誰もいない状況で顔を合わせた俺は ―― 今の今まで“1ヶ月という時間が経った今となっては、あの夜の事は現実というよりも夢みたいだ”などと考えていたのが、とんだ思い違いであった事を知る。

 それはただ単に、先生が俺を放っておいてくれたから、だから落ち着いていられただけだったのだ。
 彼がこうして俺のすぐ前に立って、俺を見下ろしている ―― 何ひとつ言葉を発するでなく、ただ見つめられているだけで、心臓が音をたてて軋むのが分かる。

 しかし今自分が立っているこの場所が仕事場であり、勤務中であるという事実が、パニックの世界へと落ち込みそうになる俺の精神を何とか踏みとどまらせてくれる。有り難いことに。

 俺は軽く頭を下げつつ、彼の脇を通り抜けようとした。
 出来る限り、精一杯の何気なさを装ったつもりだが、おそらくもの凄くぎこちない動きだったに違いない ―― コッペリウス博士が作りそこなった、機械人形みたいに。
 そんな俺の手首を、伸びてきた彼の手が掴む。掴まれた手首に向かって身体中の神経が、有無を言わさず引きつけられてゆくのを感じた。

「・・・は、離してください」
 と、俺は言った。
「嫌だと言ったら?」
 と、香椎先生は言った。

 反射的に顔を上げると、俺を見下ろす香椎先生の口元にはうっすらと笑みが漂っていた。

 からかわれている・・・。

 そう思った俺は反対の手で彼の手を押しのけようとしたけれど、手首を掴む手はそれ程力を入れているとは思えないのに、びくともしない。

「離してください」、と俺は繰り返した、「勤務中ですよ・・・!」
「俺は違う」、と香椎先生は答えた、「今から帰るところでね。まぁ、いつまた呼び出されるか分かったものじゃないが」
「あ、そうなんですか、お疲れさまです・・・って、そうじゃなくて、俺はですね・・・!!」
「面白いよな、直 ―― と、先生は軽く声を上げて笑った ―― ところで見回りってこの時間だったっけ?今日は少し早くないか?」
「・・・え?・・・えっと、今日は珍しく何も問題がなかったので」
「ああそう。じゃあちょうど良かった」
 と、香椎先生は頷き、何が良いのか分からずにきょとんとする俺の手を引いて側の扉を開け、その中に入った。  押し込まれるようにして入ったそこは給湯室で、閉めた扉に寄り掛かった香椎先生は懐から煙草を取り出して口にくわえた。

「・・・あ、あの・・・なにか・・・?」
「どうして連絡をくれないんだろう」
 俺が言いかけたのを遮って、先生は言った。
「ずっと待ってたんだけどな、まさに一日千秋の思いで」
「・・・、はぁ。すみません」

 嘘だ、そんなの。と思いながらも一応俺は謝り、先生から視線を逸らした。

 連絡をする気があったとしても、あんな無表情かつ無関心な態度をとられたら、普通は二の足を踏むだろう。
 俺が彼の事を好きで、思い余ってあんな事をしたのだともう分かっているだろうに“一日千秋”って・・・言われるこっちの身にもなって欲しい。
 期待まではしないけど、でも、もしかしたらもしかする?とか思っちゃいそうになるじゃないか。
 陽介の言うとおり、この人は本当に、とんでもない人かもしれない・・・。

 そんな俺の思いを分かっているのかいないのか、彼は取り出した煙草に火をつけ、それを吸うでもなく、その先端から煙が立ち昇ってゆく様を眺めていた。

 まとまった沈黙が続いたので、ここから逃げ出す努力をしてみようと顔を上げると、いつのまにか近付いてきていた先生が目の前に立っていて、驚く。
 慌てて後退ったのだけれど、狭い給湯室では一歩後退するのが限界だった。
 威圧するように俺の前に立った彼は、前置きも何もなく突然、病院から数駅先の駅名と、いくつかのビル名を取り混ぜた簡単な道順と、お店の名前らしき単語をさらりと口にした。
 彼が何を言っているのやらさっぱり分からず、俺はぽかんとして彼を見上げていて、そんな俺を見下ろした先生は再び笑いの影のようなものを唇の端に浮かべ、
「直、日勤夜勤で働いていたから、今日一杯は休みだろう。
 今日の6時に、予約を入れておくから」
 と、まるでそれが定期的な決まりごとででもあるかのように言った。

 俺は3秒半くらい固まっていたけれど、やがて彼の言葉がじわじわと心に染み込んで来る。
 そしてその内容を完全に把握した瞬間、俺は今までとはまた別の意味で茫然とした。

「なんですか、それ?そんなの、聞いてませんけど」
「それはそうだろうな、今決めて、今言ったんだから」
 何とか声を絞り出して言った俺に、彼はあっさりとそう言い返した。
 反論する余地の見えない彼のきっぱりとした物言いに対して、俺はもう言い返すどころか、動くことも出来ない。

 彼は手にした煙草を一口だけ吸い、それを側にあった灰皿に押し付けてから、踵を返した。
 給湯室の扉を開け、彼が外に足を踏み出すのを見てようやく俺が安堵の吐息を漏らした、その時 ―― ふいに振り返り、きっちり2歩で俺の前まで戻ってきた彼の手が俺の顎を荒々しく掬い上げる。

 安堵しかかっていた矢先のその唐突な行動に全くついてゆけずにいた俺に、彼は噛みつくみたいなキスをした。
 顎を掬い上げられたのと同じ色彩の荒々しいその口付けは、いつまで経っても終らない。
 徐々に足から力が抜けてゆき、それを引き止める努力によって膝が震え出した頃、ようやく先生は身体を起こした。
 俺は口付けられていたそのままの格好で、壁に背中を預けたまま、彼を力なく見上げていた。

「約束を守らなかった罰・・・って、これだけで許してあげるなんて、割に合わないかな。じゃあ、6時に」

 そう言った香椎先生は今度こそ給湯室を出て行き、残された俺は ―― 壁に沿ってずるずると崩れ落ちるように、その場にしゃがみこんだ・・・。