Fight C Luv

17 : 選び取ったもの

 それからどれ位の間、給湯室でぼぉっとしゃがみ込んでいただろう?

 はっと気付いた時にはもう、普段見回りにかかる時間はとっくに過ぎ去っていて、俺は慌ててナースステーションへと向かった。
 遅くなった理由をどう説明すればいいのか途方に暮れていた俺だったが、俺が戻る直前に急患が運ばれて来たとかで、ナースステーションは戦場のようになっていた。
 お陰で誰にも遅くなった理由を追及されず、俺はほっとする ―― こんな風に考えるなんて、立場上不謹慎なのは重々承知だ。
 でも香椎先生とのあのキスの後では、とてもではないがうまい言い訳など思い浮かびそうもなかった。

 しかし当然ながら、根本的な問題は全く解決していない。
 必死で頭を仕事のことでいっぱいにしつつ、その後の仕事をなんとかこなして辿り着いたロッカールームで一人、俺は頭を抱える。

 今日の夕方6時に、と香椎先生は言った。
 帰りがけにさりげなく確かめてみたのだが、先ほどの急患の件で香椎先生は呼び戻されてはいなかった。
 と、いう事はつまり、あの約束は有効という事で ―― 今から数時間後、2人きりでもう一度香椎先生と会う・・・という事で・・・。

 ど、どうしよう、どうすればいいんだ俺は・・・!?
 香椎先生に指定された店がどんな店だか分からないから、なにを着ていけばいいのかすら分からないじゃないか!!
 前の時も普通の服であの高そうな店につれて行かれて、気後れしたのに ―― いや、そんな、服なんかどうだっていいのだ。
 問題はあの香椎先生と、あの夜を過ごした後で、差し向かいで顔を合わせなければならないという事実なのだ。

 大体、香椎先生は何を考えているんだろう?
 あの夜から1ヶ月以上経っていると言うのに、どうして今更こんな事になるのか。

 と、そこまで考えた俺は ―― 正確には“あの夜から1ヶ月”というフレーズを考えた瞬間に、かあっと頬に血が上るのを感じた。

 あの夜の出来事が、1ヶ月近くかけて漸く薄れてきていたあの記憶が、あの体験が、あの感覚が、まざまざと身体のあちこちに蘇ってきた ―― ちょうどその時、ロッカールームの扉が叩かれて俺は飛び上がる。

「は、はい!どうぞっ!」
 と言ったのを受けて扉を開けた陽介を見て、俺はホッと息を吐く。
「お、直、今帰りか。入れ違いだな・・・っておまえ、そんなところで直立不動で、何やってんだ?」
「え?ああ、うん、いや、ちょっと・・・、びっくりした」
 動悸のおさまらない胸を押さえて言うと、陽介は眉間に皴を寄せて首を傾げた。
「びっくりって、ノックしただろうが。どうかした?」
「ど、どうかって・・・?」
「顔、赤いけど。熱でもあるんじゃねぇだろうな」
「熱なんかないよ、ただ・・・」
「・・・ただ?」
「ただ、ちょっと・・・疲れてる、のかも」
「・・・ふぅん?そういや直、このところ夜勤多いもんな ―― ああそうだ、なんなら家に寄ってけ。今日は沙紀が家にいるから、なんか作れると思うぜ」
「・・・うん、ありがとう。でも今日はちょっと用事があるから」
 と、俺が答えると陽介は、そうか。と言いながら頭からトレーナーを脱ぎ、ロッカーから取り出した白衣を羽織る。
「最近会ってないだろ、沙紀と。この間、どうしてるって訊いてたからさ ―― 今日は駄目でも、近いうちに顔出してやって。今ちょうど大きなイベントが終わったばっかりで、あいつも家にいることが多いから」

 そう陽介が言ってくれたのに、うん、分かった。と頷きながら ―― “用事がある”と言って陽介の誘いを断った事で、これから香椎先生と会うという選択肢を自分自身で選び取ったのだ、と思った。
 どうしよう、と混乱しながらも、彼に会いたいと心の底では思っているのだろう。
 その先に、たとえ何が待ち受けているのだとしても。

 手早く服を着替え、陽介と上の空で会話を交わしつつ病院を出ながら、俺は6時に彼に会うまでに何をすればいいのかと考えていた。

 散々悩みながら家に帰った俺が出来たのは結局、少し眠ってから丁寧にお風呂に入ることくらいだった。

 ―― って、なんだかこう書くと最初からいやらしい事を予想して、それに備えているみたいだけれど、そういう意図はなく(本当に)、夜勤明けで帰ってきた時にはいつもお昼過ぎにお風呂に入るのだ。
 まぁ・・・いつもより大分丁寧に身体を洗ってしまったりはしたので・・・やはり深層心理では色々考えてる事はあったのかもしれない・・・、・・・。

 そうして向かったお店は、この間彼が連れて行ってくれたところとは180度方向性の違う、多国籍料理を出すお店だった。
 うるさいという程ではないけれど、適度にざわついた雰囲気の店内を見回すと、中央付近のテーブルに彼が座っていた。
 少し前からここに来ていたのだろう、テーブルの上には8割がた中身の減ったグラスが置かれている。
 彼は本を手にしていたけれど、それは普通のものより少し縦幅の長い文庫本で、仕事の本ではなさそうだった。

 俺はその場で緊張を軽減する為にゆっくりと3回深呼吸をしてから、彼に近付いてゆく。
 テーブルから2歩ほど離れた所で立ち止まった俺を見上げた彼は、やあ。と言って手にしていた本をぱたんと閉じ、それをテーブルの右端に置いた。

「・・・お待たせしてしまったみたいで、すみません」
 と、俺は言った。
「いや、大丈夫。ここはあまり目立たない店だから、最初はみんな迷うんだ」
 と、彼は言った。

 迷ったのではなく、店に入る決心がつくまでに予想以上の時間がかかってしまっただけだったのだけれど、俺は曖昧に頷いて彼に促されるまま、椅子に座る。

 注文を済ませてから ―― 何飲む?と訊かれ、お酒以外で!と即答して爆笑されたりして ―― 彼は目の前に置いてあったグラスを脇にずらした。
 そしてテーブルの上で丁寧に指を組み、真っ直ぐに俺を見て微笑む。
 彼の顔に浮かべられた微笑みはとても感じの良い、あたたかなもので、その微笑みを見て緊張が少しだけ解けてゆく気がした。

「・・・なにを読んでいるんですか?」
 テーブルの端に置いてある文庫本をちらりと見て、俺は訊いてみる。
「グレイト・ギャッツビイ」
 先生は答え、右手の親指で文庫本の左上をパラパラとめくった。
「あ、俺も好きです、フィッツジェラルド」
 と、俺は嬉しくなって言った。
「グレイト・ギャッツビイなんか、何度読み返したか覚えていません」
「そうだな、俺も学生の頃は1ヶ月おきくらいに読み返していたよ。今回は久々に読んだんだけれどね・・・新訳が出ていたから。読んだ?」
「いえ、まだです。新訳が出てるなんて知りませんでした」
「じゃあこれ、読むか?」
 と、言って先生は俺に向かって本を滑らせた。
「 ―― でも、読み途中なんじゃないんですか?」
「そうだけど、4回目だから」
「4回目?」
 びっくりして俺が訊き返すと彼は小さく肩をすくめ、
「俺はどんな本でも、腰をすえてじっくり読むって事が出来ないんだ。先がどうなるのか知りたくて、文章の細部、特に文末あたりをすっ飛ばして、筋だけ追って読んでしまう。最初の1、2回は。3回目くらいでようやく落ち着いて読めるようになる。何度読んだ本でも、一度読み出すと駄目なんだ。恐らく、短気なんだろうね」
 と答え、俺の前までずらしてきた本から手を離した。
「だからこれは、持って帰っていい」
「・・・じゃあ、お借りします。ありがとうございます」
 と、俺がお礼を言うと、彼は黙って首を横に振った。