18 : 帰りたくない
その日は俺だけではなく香椎先生も“車で来たから”と言ってお酒は一切飲まなかった。
けれど前回と違って、お酒を飲まなくても普通に話は出来た。
最初に共通の作家が好きだと言う部分から話題が始まった所為かもしれないし、ギャッツビイが放つ魔力は本の中だけに留まらないからかもしれない。
ギャッツビイ効果なんてものがあったのか、なかったのかは分からないけれど、先生とはフィッツジェラルドの話だけではなく、音楽や他の趣味でも共通項が結構あって、話しているのは意外に楽しかった。
一番最初に彼と食事をした時のあの、極度の緊張から話した内容の殆どを覚えていない過去と比べてみれば(あの日は酔いすぎていたというのもあるけど・・・)大躍進といった感じだ。
終始普通に、まるで親しい友人と食事をしに来たかのような雰囲気で食事は進み、食後に出されたコーヒーを飲みながら俺は、“今日ここで先生と話していたのは俺であって、俺じゃないみたいだ”なんて呑気に考えていたのだけれど ――――
コーヒーを飲んだ後、ごく自然な動作で伝票を手にした先生に続いて立ち上がりながら、俺も払います。と言うと彼は俺を見下ろして4秒くらい間を置いてから、いいよ。と伝票をひらひらと空中で振った。
そして続けて、だって今日は俺が誘ったんじゃないか。そうだろう?と、ふいにどこか意味ありげに目を細め ―― 俺はすっかり忘れていた先生の病院での態度を思い出す。
どうして1ヶ月近く経った今になって、俺を誘ったんだろうという疑問と共に。
会計を済ませた先生は優しいけれど有無を言わさないやり方で俺の腕をとって駐車場まで誘導し、俺を停めてあった黒いトヨタ・クルーガーの助手席に乗せた。
急に押し黙った俺に構わず車を発進させた彼は、狭い路地を縫うようにして抜け出した所で、俺に家はどこなのかと尋ねた。
なんだか上手くものが考えられなくなっていた俺がたどたどしく住んでいるマンションの場所を答えると、先生はいくつかの質問(それは駅のどっち側の入り口方面になるのかとか、要所要所の目印の確認など)をしてからクルーガーのパネルのボタンを幾つか押し、その後は黙って運転に意識を集中していた。
本当に彼は一体、どういうつもりなんだろう?
小さな音でかけられたクラシック音楽が沈黙を満たす中で考えてみたけれど、さっぱり分からない。
いや、何よりも、俺は自分が何を考えているのかが分からなかった。
前回を限りとして、これ以上彼と関わらないと本当に決めたのであれば、彼にそう伝えればよかったのだ。
だって、そう、俺は彼の携帯電話の番号を知っているのだから。
財布の奥にしまってあるあの紙片に記された番号に電話をかけ、そう言えばいい。
電話が駄目なら、メールをすればいい。
あなたにはもう二度と会う気も、関わる気もないのだと、そう伝えればいい。簡単な事だ。
そうすれば彼はそれ以上俺に近付いては来なかっただろう ―― 彼が何を考えているのか分からないとは思っていたけれど、何故かその点だけは確信があった。
それなのに俺は断りの電話をかける事もせず、彼の言うまま指定された場所にやって来て、掴まれた腕を振り払おうともせず、促されるまま彼の車に乗り・・・・・・
正直に言おう、俺は住んでいる場所はどこなのかと尋ねた彼が車をそちらに向かわせた瞬間、微かに落胆さえしたのだ。
それは心の奥底を一瞬の半分位の間でさっとよぎったにすぎなかったけれど、気付かない振りをするには熱すぎ、また、鋭すぎる想いだった。
ふいに、車がとまった。
深い思考の海に漂っていた俺は、はっとして顔を上げる。
車は俺の住んでいるマンションから数ブロック手前の路肩に、ひっそりと寄せられていた。
周りを確認し、最後に彼を見ると、彼は車のシートに深く背中をもたれさせてじっと俺を見ていた。
沈黙があり、その底にクルーガーのエンジンが冷えてゆく微かな音が響いている。
「着いたよ」
と、彼が言った。
俺は首を縦に振った。声は、出なかった。
再び少しの沈黙があり、その沈黙を破って彼が、
「帰るか?」
と、とても静かな声で訪ねる。
「・・・え・・・?」
と、俺は吐息と同じような微かな声で聞き返す。
「このまま帰るのか帰らないのか、どうするのかと訊いているんだ。帰ると言うならもう二度と、こんな事はしない。約束する」
そう問われても、答えになるようなちゃんとした言葉が思いつけない。
魅入られたみたいに彼に引きつけられている視線も、そこから外れない。外せない。
やがて彼はゆっくりと、もたれていたシートから身体を起こし、助手席のシートに右手をついて俺を深く覗き込んだ。
「君が、決めろよ」
彼は低く囁き、シートからずらした手指で ―― あの綺麗な指先で、俺の髪を絡めとるようにする。
「ここで終りにするのか、ここから始めるのか・・・君の、好きなようにすればいい。どうする。帰るか・・・?」
そう言って髪をかきわけた彼の指先がすっと頬に触れ、びくりとした俺は反射的に伏せた目を強く瞑る。
答えるどころか、身体が、指先すらまともに動かせない。
定期的にきちんと呼吸が出来ているのかどうかさえ、分からなくなる。
ただ指先が少し頬に触れるという、それだけの行為がここまで身体の思考の自由を奪うものだったなんて、俺は知らなかった。
こうなると頼れるのは直感とか本能とか、恐らく、言葉にするとそういうものなのだろうけど、でも ―― 俺は既に、順序だててものを考えられる状況にはいなかった。
吐息すら絡み合うような至近距離で彼に見詰められながら、真逆に位置する2つの答えのうち、どちらをとるのかと無言で迫られているのだ。
そしてそんな中、俺の直感は車を降りろと命じていて、本能はその逆の行動を取る事を俺に求めていた。
それらが激しくせめぎ合い、最終的に勝利を手中にした本能の命ずるまま、俺は小さく小さく、首を横に振る。
「・・・何?」
と、意地悪く彼が訊いた。
彼の視線が、震える俺の唇に注がれているのが手にとるように分かった。
何度か声を出して答える努力をした後、
「・・・帰りません・・・」
と、俺は呟く。
そしてゆっくりと視線を上げて、香椎先生を見る。
続けて、帰りたくありません・・・。と呟き終わる前に、一気に、口付けられた。