2 : 恋のはじまり
「いったいなんだったんだよ、今日の昼のあれは・・・」
その日の夜、仕事の終了後に陽介と顔を合わせた俺は、開口一番、言った。
「お前がいつまでも何も言おうとしねぇからだろ、水くさいんだよ」
スターバックス・カフェの熱いコーヒーを注意深く飲みながら、陽介は肩をすくめる。
「み、水くさいって言われても、別に何も、俺は・・・」
「まだ隠そうってのか?往生際が悪いな」
「隠してないって、本当に・・・いったい誰のことを言ってるんだよ」
と、たどたどしく俺が訊いたのに、
「香椎裕仁(かしいひろひと)のことだけど」
と、陽介はあっさりと、さも当然のことのように答えた。
沈黙が、流れた。
陽介が口にした香椎裕仁というのは、俺や陽介が勤めている病院の、脳外科の医師だ。
名前からして分かると思うが、彼は男性だ ―― そう、物心つくかつかないかといううちから、俺は自分が同性しか愛せないという事実を知っていた。
その不自然としか思えない自らの性癖に引け目のようなものを覚え、悩んだ時期もあった。
努力によって修正出来るのなら出来ないものかと、努力をしてみたこともあった。
だが結局俺は、高校を卒業する頃には、努力することを放棄していた。
自分の髪や肌や目の色が努力で変えられないのと同様に、その事実は決して変えられるものではなかったのだ。
そこには両親を早くに亡くし、近しい親戚もいなかったため、例えその性癖が周りにばれてもそしりを受ける(のだろう、たぶん)のは自分だけだ。という開き直りのような気持ちもあったかもしれない。
唯一の気がかりは俺が両親を亡くして以来、公私に亘って面倒をみてくれていた陽介の両親のことだったが ―― 思い切って全てを告白したとき、陽介は開口一番、
「世の中には、幼児にしか興味を抱けないなんて、厄介な奴もいる。そういうのは個人的趣味として許される範囲ではないが、お前のそれは明らかに個人的趣味の範囲内に収まるんだから、何も問題ないだろ」
と、躊躇うことなく断言し、彼の両親も驚いてはいたようだったが、その後も特に俺に対する態度を変えることはなかった。
そう、おそらく俺はラッキーなのだ。
知り合いの同性愛者の多くはそれをひた隠しにして生きており、理解者など一人もいないという人も多い。
何らかの理由でそれが周囲にばれ、自殺するまで追い込まれた人もいるくらいなのだから。
「・・・、か、香椎先生って、・・・どうして・・・」
沈黙を破って、俺は言った。
「どうしてもこうしても、昼にも言ったけど、視線が張り付いてるんだって。
それに大体、これまでお前のしてきた恋愛を逐一側で見てきてきた俺に、分からないわけないだろ」
自信たっぷりにそう断言され ―― 俺はもう、何も言えなくなってしまう。
どう誤魔化そうとしても陽介の言うとおり、香椎先生に憧れ以上の想いを抱いている自分を、自覚していない訳ではなかったのだ。
黙り込んでしまった俺を見て陽介は、ようやく観念したか。と呟いて息をつく。
「しっかしお前ってホント、ああいう遊び人タイプ、好きだよな。それでいっつも泣かされてんのに、お前の辞書に懲りるって言葉が追加される余地はないわけ?」
「・・・・・・。」
「まぁな、香椎はお前のこれまでの経歴の中ではダントツに見た目がいい、それは認める。でもな、はっきり言ってあいつはこれまでの誰よりも一番、タチが悪い」
「そ、そうかな・・・、でも医者って結構上から目線の人が多いけど、香椎先生には威張ってるとか、そういう部分は全然ないじゃないか」
反射的に勢い込んで俺が言うと、陽介は“仕方ねぇな、こいつは・・・。”とでも言いたげな視線で俺を見た。
「でも香椎って、妙に冷たい雰囲気があるだろ。それがクールだとか言われて人気あるみたいだけどさ・・・俺はどうもあの雰囲気が好きになれないんだよ。確かに上から目線ではないかもしれないけど、他人を大切にしたり、思いやったり出来る人間に見えない」
「それは誤解だよ。香椎先生は言われてるほど、冷たい人じゃない」
「・・・へぇ、やけにはっきり言い切ったな ―― 好きになった理由、その辺と関係あるのか」
ずばりと言い当てられて、俺は言葉に詰まる。
畳み掛けるように陽介が続ける、「もう話してくれてもいいだろ。じゃあまず、いいなって思ったきっかけは?」
「・・・、きっかけ・・・きっかけは、そうだな、手、だな」、と、俺は答える。
「手ぇ?」、と陽介が大袈裟に顔を顰める。
その陽介の反応を見て、俺は小さく笑う。
「手術前に手を洗うだろ、1年位前だったかな・・・香椎先生が手を洗ってるのをちらっと見かけたことがあってさ。
凄く真面目に何度も手を洗ってる、その表情が、格好良かった」
「・・・なんだそりゃ、意味分からねぇ。
そんな事言ったら俺だって手術前は真面目に手くらい洗うぞ」
「それはそうだろうけど、陽介とは違う」
「・・・直って時々、意味不明だよな・・・。ま、そこが面白いっちゃ、面白いんだけど」
やれやれ。という感じで首を横に振り、陽介は言った。
「まぁいいや。きっかけはそこで・・・それから?」
「・・・それから、って?」
「いい加減とぼけるのやめろって。それがきっかけで、それから?」
「・・・うん・・・、・・・」
と、俺は言って陽介から視線を逸らし ―― 思い出す。あの日の、あの、光景。
今でも鮮明に思い出すことが出来る、あの日仄暗い廊下で垣間見た、彼の表情と仕草。声にならない声。無言の慟哭の気配。
俺が彼に恋をするきっかけになった、あの、光景を。