3 : 手の届かない場所
あれは“その日”の ―― 確か2週間位前の事だった。
脳に転移した癌を除去する手術中に患者さんが亡くなって ―― その手術の執刀をしていたのが、香椎先生だった。
何時間にも及んだという手術の果て、オペ室から香椎先生が出てくるところに偶然通りがかった俺は、その場で動けなくなってしまった。
その日亡くなったのは小学校卒業間近の時に転移性の骨癌が見つかり、その後何年も入退院を繰り返している少年だった。
大人でも自暴自棄になるような辛い治療中でも弱音を吐かずに明るく前向きに頑張っているのだと、院内でも有名だったのだ。
しかし俺の足を止めさせたのは、そういう理由とは別のところにあった ―― 少年の話は以前から聞いており、上手くいけばいいとは思っていたものの、心療内科勤務の俺と彼は、全くと言って良いほど接点はなかったのだ。
だから、そう、俺をその場から動けなくしたのは彼の ―― 香椎先生の、厳しい、憔悴しきった表情だったのだと思う。
そしてそこで繰り広げられる“いつもの”あの光景 ―― 結果を報告をする医師と泣き崩れる家族、という見慣れたくもないけれど、病院内ではよく見るシーンが“繰り返される”。
当事者家族にとっては経験したくもないであろうその光景を、俺達は日常的に見て、見慣れてさえしまっている事が哀しいと、こういった光景を見るたびに俺は思う。
そういう時、悲しみの余り医師を罵倒したり、なじったりする人も少なからず存在する。
家族の命を奪ったお前には天罰が下るだろうとか、果てには殺してやる、なんて事を言う人さえいる。
以前どこかで、医者は感謝もされるが、激しく恨まれる事も多い。という話を聞いた事があるけれど、あれは冗談でも何でもなく、本当に本当の話なのだ。
“医者なんてろくなもんじゃない”というようなことを言う人が、時折いる。
陽介に言ったとおり、俺自身も医者には上から目線の、どうしようもない人間が多いとも思っている。
だがそれなりに技術の限りを尽くしたことに対して、恨まれたりなじられたり、といった経験を繰り返すと、やがて精神がどうしようもなく疲弊し尽くしてしまって、そうならざるを得ないのかもしれない、とも、俺は思ったりもするのだ・・・ ――――
―― と、少々話が逸れたが、その時はさすが、性格がいいと有名だった彼を生んで育てたご両親だけあって、激しく泣きながらも、これまで手を尽くしてくださってありがとうございました。と香椎先生に頭を下げていた。
対する彼は淡々とした言い方で、いいえ、私の力が及ばず・・・。と、そこまで答えて絶句し ―― それから長い事、ご両親の前から立ち去ろうとしなかった。
少し後で手術室から出て来た手術室看護師長の三田村(みたむら)さんが俺のところにやってきて、
「あともう少しって所だったのよ・・・香椎先生もこのオペだけは絶対に成功させてやるって、言ってたんだけどね・・・・・・」
と、やはり疲れきった言い方で呟いた。
そういう事があってから1、2週間が経過した“その日”。
その日、ちょっとしたトラブルがあって夜遅くまで残っていた俺は帰りがけ、誰もいない筈の廊下に人影を認め、ギクリとして足を止めた。
一応断っておくけれど、幽霊じゃないか?なんて思ったりしたわけじゃない。
どんな病院にも1つや2つの怪談話はあるものだが、勤務してる人間がそんなものにいちいち怯えてはいられないし ―― それに病院に勤務する者にとって怖いのは幽霊ではなく、生きた人間であった。
深夜、徘徊中の患者さんに怪我などされたら、その方が大問題なのだ。
だが目を凝らしてよく見てみると、その人影は患者さんではなく ―― もちろん幽霊でもなく ―― 深夜勤務中の香椎先生だった。
どうしたんですか?と声をかけようかと思った俺だったが、彼が立っているそこが未だ空室になったままの、例の少年が入院していた個室の前であるという事実に気付き ―― 発しかけた声を慌てて飲み込んだ。
俺が近くにいる事を知らない香椎先生は暫くそのからっぽになってしまった ―― 友達が多かった彼の病室にはクラスメイトや所属していたバスケットボール部の人達がひっきりなしに訪れ、その人たちから送られた花や千羽鶴などが誇張なしに廊下にまで溢れかえっており、担当の看護師が“頼むからもう少し片付けて”などと懇願していたのを、俺も知っていた ―― 病室を、しんとした雰囲気で眺めていた。
やがて彼はそこで立ち尽くしたまま、長い長い、溜息をついた。
その吐息の音はどこか危うげな程に細く切なく ―― 泣き出しそうに震えてすらいるように思え ―― それを知った俺は思わず廊下の角から飛び出し、
「医者は神様じゃないんだから、どうにもならない事だってありますよ!」
などと、埒もない事を大声で叫んでしまいそうだった。
香椎先生があと1秒でも長くそこで目を閉じたまま立っていたら、俺はその衝動に抗えなかっただろうと思う。
しかし香椎先生は俺が我慢出来ずに足を踏み出そうとした一瞬前に、顔を上げた。
再び開かれた双眸からは先程までたゆたっていた危うげな光は綺麗さっぱり消え去っていて ―― そこにはいつもの、冷たいまでに平坦な光だけがあった。
それから彼はきっぱりとした動作できびすを返し、静かにその場を立ち去った。
振り返る気配はなかったし、その場所で彼の姿を見かける事は、二度となかった。