20 : 理性の扉が閉まる音
その夜の2時近く、深夜勤務だった俺は科の上司である坂上さんに、
「秋元、お前本当に疲れているみたいだから長めに休憩を取っていいぞ。ロッカールームかなんかで、少し寝て来い」
と、言われた。
坂上さんがそう言うのを聞いたナース達も、そうよ秋元さん、少し休んできた方がいいわよ。と口々に言う。
疲れていると言うのとはちょっと違うのだが、みんなが余りにも突き詰めた顔でそう勧めてくれるので ―― 悩んでいるのが、そこまであからさまに態度に出ているのかと思うと、情けなかったが ―― その言葉に甘えさせてもらう事にする。
実は今休みを取っている同僚は俺と組んで仕事を回していたカウンセラーだったため、彼の仕事の殆どが俺にかかってきており、疲れていない訳ではなかったのだ。
礼を言ってその場を後にした俺は坂上さんに言われた通りロッカールームに向かい、扉をノックし ―― 返ってきた声に、どきりとしてその場で固まってしまう。
俺がしたノックに対し、どうぞ。と答えたのは聞き間違えようもない、香椎先生の声だったのだ。
いつもいつも、彼の態度や言葉や行動にドキドキさせられっぱなしではある。
だが一緒にいる機会が多くなればなるほど、徐々に慣れてきている部分はあった。
ただし未だに彼の声 ―― 時々語尾が掠れたようになる彼の低い声にだけは、慣れる事が出来ない。
恐らくこれから先どんなに長い時間をかけても、この声を聞いて平静でいられるようにはなれないだろうと思った。
俺は緊張と共に、ドアを開く。
ドアの隙間から顔を出した俺を見て、香椎先生は小さく笑い、
「ああ、君か。今から休憩?」
と、言った。
「・・・、そうです」
と、俺は言った。
彼は喉の奥でふぅん。と言ってから、少し黙った。
「 ―― そんなところに立ってないで、こっちに来て、座れば?」
短い沈黙を破って、香椎先生は言った。
「・・・あ、はい」
思いがけないタイミングで先生と顔を合わせたせいで何となくぼんやりしていた俺は肯き、ぎくしゃくと(たぶんそう見えたと思う)ロッカールーム内へと足を踏み入れる。
次いでドアを閉め切ろうとしたのに合わせるように彼が、
「 ―― ああ、ついでに鍵も閉めておいてください」
と、言った。
「・・・あ、はい・・・、って、鍵・・・っ!?そんな、どうして、・・・っ・・・」
最後素っ頓狂な声で、俺は言った。
「まぁ一応、念のためにね ―― なにもないかもしれないが、絶対にないとは言い切れないでしょう。違う?」
と、香椎先生はにやりと笑みを深くして、言った。
「・・・っ、で、でも職場で、そんなこと ―― 」
と、俺はしどろもどろになりつつ、必死で言った。
「“職場で、そんなこと” ―― って、もの凄い想像をしているのかな、直は。もしかして」
俺の言葉を繰り返して言ってから、彼は軽く声を上げて笑った。
「まぁいい、何をするにしてもとにかく、ほら、ドアを閉めて」
そう言われて、“凄い想像をしているのかな”って、明らかに含みのあるようなことばっかり言ってるのは先生じゃないか、今みたいな言い方をされて色々想像しない人なんか、絶対にいないだろっ!などと、ぐるぐるパニックしていた俺は反射的に、きっちりとドアを閉めてしまう。
「 ―― 鍵もかけて」
と、彼が続けて繰り返す。
俺はもう何も考えられず、まるで催眠術にでもかけられているみたいに彼の指示通り、鍵をかける。
そしてそれから、俺はゆっくりと振り返り、薄く微笑んでいる香椎先生を見た。
誘導されたとはいえ、こうして先生と2人きりの空間を作りだしたのは自分自身なのだから、こんな風に躊躇うのは今更だと思う。
けれど俺は先生の隣に歩いてゆくことに、恐怖に近いような躊躇いを覚えていた。
むろんここは病院で、俺も先生も勤務中で、特に彼はいつ何時呼び出しがあるか分からない状態なのだから、そこまで凄いこと(ってなんなんだ、本当に)になる訳もない、たぶん、でも ―― そう、でも、俺はもう嫌と言うほど思い知らされているのだ。
例えどんなことであっても、俺は香椎先生の求めには絶対に逆らえない、と。
でも今はさすがに、これ以上側に行ったらまずい気がする・・・。と、往生際悪くドアの前で逡巡している俺を見て先生は肩を竦め、手にしていた黒いファイルの角を空中で揺らした。
「あのさ、そこから5歩歩いて、ここに座るところまでナビゲーションしてやらないと来られないのか?」
彼のどことなく呆れたような声を聞いた俺は、彼に気付かれないように深呼吸をしてから5歩歩いて先生の座っているソファに近づく。
そうして1人分ほどの間を空けてソファに腰掛けようとした俺の腕を、伸びてきた先生の手が強く掴んで、引いた。
俺が崩れ落ちるように先生の隣に腰を下ろすのと同時に、先生の手から黒いファイルが滑り落ちてゆく。
彼の手から離れて落ちていったファイルが床に当たるぱたんという音が、理性の扉が閉まる音のように聞こえた・・・ ――――