22 : 何度やりなおしても、きっと
俺の思考能力を麻痺させる麻薬のような空気はしかし、
「 ―― 残念だけど、タイムリミットだな」
と、彼がふいにそう言って身体を起こしたのと同時に、終りを告げる。
高揚していた気分が冷めきらない俺の思考に、所在不明になりかかっていた答えが戻ってくる。
そう、ここは病院内で、ロッカールームで、俺達は仕事中で ―― だからもちろん、俺を強引にソファーに押さえこむようにしていた彼が俺から手を引いた事を、良かったと思うべきなのだ。
自分でも、そう思おうとした。というか、そう思うに決まっていると思っていた、でも ―― でも俺はあろうことか反射的に“ここでやめるなんて酷い”などと考えてしまっていた。
もう、自分で自分が信じられない。
「・・・大丈夫か?」
ぼぉっとしていた俺に、彼が訊いた。
大丈夫かって、大丈夫なわけがない。
なんなんだろう先生のこの、シラッとした態度は・・・切り替えが早すぎる。
俺ひとりがドキドキしたり、慌てたりしていて、馬鹿みたいじゃないか・・・。
無言でのろのろと身体を起こしながら、やっぱりあの時、俺は車を降りるべきだったんだよな・・・。などと、今更過ぎる事を考える。
乱された白衣を直してから時計を見上げると、時刻は3時を10分ほど過ぎた地点を指していた。
「なぁ、ところで君、明後日、何か予定あるか?」
上げた手で俺の髪を直してくれながら、彼が言った。
「明後日・・・日曜日ですよね」
「そう。直、休みだったよな?もう予定入れてる?」
「・・・いえ。空いてます」
昨日のお昼、同僚の誘いを断っておいて良かった。と思いながら、俺は首を横に振る。
“やっぱりあの時、車を降りるべきだった”なんて、たった今考えていたというのに・・・、心にもない事を言うとは、こういう事を指すのだろう。
何度やり直してみても、俺はあの車から降りることなど、出来ないに決まっている。
「じゃあ、泊まりに来ないか」
「え?泊まり・・・って、どこにですか?」
「俺の家。新宿なんだけど」
「・・・っ、先生の家・・・!?」
仰天してソファーから立ち上がった俺を見上げて、先生はまた、笑い出す。
「そんな大仰に驚く事だろうか?」
「でもそんな・・・、俺なんかが行っていいんですか?」
と、俺は訊いた。
「何だそれ、質問の意味が分からない」
と、先生は答えた。
「来られたら困ると思っていたら、はなから誘わない。
それに ―― と、言って先生は少し足を滑らせ、俺のつま先を靴の先でつついた ―― 今の続きも、したいでしょう?」
そう言われて、頬に一気に血が上ってゆくのが分かった。
“これで終りなんて酷い”という俺の思考を、完全に読んでいるのだ。
恥ずかしくて、恥ずかしすぎて、一言も言葉が発せなくなっている俺を見上げていた先生が、ゆっくりと立ち上がる。
そして彼の右の掌が俺の背中に置かれ、ドアへと誘導される。
「俺は明日から学会で出かけなきゃならないんだが、土曜日の夜に戻る。帰りがけに君の家まで迎えに行くよ」
そう言われ、ぎこちなく頷いた俺を見て先生は唇の左端をちょっと曲げて笑い、ドアを開けて外に出た。
「・・・それじゃあ、俺はこっちだから ―― と、言って先生は俺の科がある病棟とは逆方向の廊下を指差した ―― 時間が分かったら、また連絡する」
まだ上手く声が出なかったので、俺はもう一度頷く。
じゃあ、と軽く右手を上げて先生が俺に背を向けて歩き出し ―― ホッとしたのもつかの間、すぐに彼は振り返った。
「そういえば君にひとつ、質問したい事があったんだ」
「・・・え?」
「君、電話嫌いなのか?」、と彼が言った。
「・・・どうしてですか?」、と俺は言った。
「番号教えてあるのに、全然かけてこないじゃないか。だから、電話嫌いなのかな、と思って」
「・・・嫌いという積極的な気持ちはないですけど・・・。
でも先生が忙しくなさっているのは知っていますし、邪魔したら悪いかな、と思って」
「確かに毎日暇かと聞かれたら暇であるとは言えないけど、24時間ずっと仕事してる訳じゃないからね。仕事中ならはっきりそう言うから、そんなに遠慮しなくてもいい」
「・・・はぁ・・・」
と、俺は首をちょっと横に傾ける。
そんな事を突然言われても、俺はあくまでも受動的な立場なのであって ―― だから、遠慮せずに電話をかけてきてもいい。なんて言われても、正直、困ってしまう。
大体、俺が彼に電話をかけて、一体何を話すというのだろう?
俺達は、指定された無記名的な場所で会おうという約束する以上の話をする必要はないのではないか?
ただ少しでも話がしたいなんて、恋人みたいな事を言える関係じゃないのではないのか?
もしかして、違うのだろうか。そうじゃないのだろうか。
そうじゃないのだとしたら・・・ ――――
そこまで考えた所で、俺は慌てて傾きかけた心を引き戻し、元通りに体勢を立て直す。
彼に2つの選択肢を差し出されて、こっち側に足を踏み入れるという選択をしたのは俺自身なのだ。
だから、少しでも長く先生と一緒にいたいと思うのなら、期待などしてはいけないと、強く自分に言い聞かせる。
俺は無理矢理製造した微笑みを顔に貼り付け、
「分かりました。じゃあ今度、電話します」
と、言った。
彼はすっと目を細めて頷き、今度こそ振り返らずにその場を去って行った。
彼の背中が廊下の角を曲がって見えなくなってから、俺は足早に自分の科へと戻る。
「少しはすっきりしたみたいだな」
部屋に戻ってきた俺の顔を見て、坂上さんが言った。
こんな関係を継続するのは、やはり間違いなのではないだろうか?などと悩んだり、落ち込んだりもするけれど、それでも彼と2人きりで会えるという目標が出来ると嬉しくて、何となく元気になる俺なのだ。
つくづく、現金すぎて笑える。
「 ―― はい。すみませんでした」
と、俺は言った。
「まぁ、今日は比較的暇だったからな。
でももちろん、ゆっくりした分はきっちり働いて帳尻を合わせてもらうぞ ―― このカルテ、整理しておいてくれ」
どさり、と音を立ててテーブルに積み上げられたカルテの山をみて、その場にいた同僚やナース達が、坂上さん、容赦ない!などと言って、笑う。
坂上さんははずした眼鏡を拭きながら、当たり前だ、部下は甘やかすだけじゃ駄目だからな。と返す。
お約束のように、坂上さんに甘やかされたこと、あったっけ?などと皆で顔を合わせて笑ったりしていて ―― それと一緒になって笑いながら、俺はテーブルに置かれたカルテの山を自分の方へと引き寄せた。