23 : お笑い担当
土曜日の夜、初めて行った香椎先生の家は、新宿の都庁近くにあるマンションの最上階にあった。
案内されたリビングの中央に立ち、ぐるりと辺りを見回した俺に先生は、
「事前にもう少し綺麗にしておこうと思ったんだけどね・・・、時間がとれなかった」
と、言ってリビングのカウンター・テーブルの上に積み上げられた医学書やらファイルやらを、違う部屋に片付けていた。
でもそんな事をしなくても、その部屋は男の人が1人暮らしをしているとは思えない位に綺麗だった。とはいえ、女の人の気配を感じるような綺麗さではなく ―― 何と表現すればいいのか ―― 無機質というか・・・、そう、綺麗すぎるし、整いすぎているのだ。
塵ひとつない黒に近い焦茶色の床、蛍光灯の明かりを受けて冷たい光を放つガラス製のテーブル、黒い革張りの大きなソファー。
部屋の片隅でひっそりと息づいている観葉植物、大きな窓一杯に広がる新宿の夜景・・・ ―― 。
こんな雰囲気の部屋は、日本のドラマでよくある、撮影用の部屋でしか見られないと思っていた。
「・・・どうかした?」
ふいに後ろから声をかけられ、俺はびくりとして振り返る。
そこにはいつの間にか戻って来ていた先生が立っていて、ぼんやりとしていた俺は驚きのあまり思わず、
「本当にここに暮らしていらっしゃるんですか?」
などと、尋ねてしまう。
先生は笑い、そうだよ。と答えてソファーを指差した。
「立ってないで、そこ、座れば。コーヒーでいい?」
「あ・・・はい」
俺は頷き、恐る恐る(?)ソファーに近付き、その端に腰を下ろした。
それは柔らかすぎず堅すぎず、とても座り心地のいいソファーだった。
特別ソファーに詳しいわけではないが、そんな俺でも、これが本当に質のよいソファーであることが分かる。
「疲れてるんじゃない?」
キッチンから出てきた先生は、俺にコーヒーの入ったマグカップを渡しながら訊いた。
「夜、忙しかったって聞いたけど」
「ええ、確かに昨夜は相当慌ただしかったですね・・・、でも、どうしてご存知なんですか?病院には寄られてないっておっしゃってましたよね?」
「東京に戻ってくる途中、石田くんから電話があってね。救急が何件か入っていたらしいって言ってたから」
「ああ、石田さん・・・」
俺は繰り返し、脳外科の手術室ナースである石田さんの落ち着いた物腰を思い起こしながら、コーヒーを一口、口に含んだ。
「・・・そうですね、確かにちょっと忙しかったですけれど・・・。どれも重篤な状態ではなかったみたいで、朝には落ち着いていましたよ。
それより、先生の方が疲れているんじゃないですか?学会って、神戸で開催されたんだって聞きましたけど、この日程じゃとんぼ返りですし、殆ど眠れていないですよね?」
「んん、そうだけど、でもまぁ、俺は大丈夫だよ。もともとそんなに寝ない方だから」
「寝ない?」
「そう、1日のうち長くても3、4時間位しか寝ないな。日々勉強しなきゃならない事が山ほど出てくるから、寝てなんかいられないというか・・・寝ている時間が勿体無いというか」
「・・・それって、凄いですね・・・、俺なんか寝ても寝ても寝たりなくて、休日なんか寝すぎて疲れたりしているのに」
そうやって自己犠牲の積み重ねみたいな努力をしないと、腕のいい脳外科医としてもてはやされたりしないんだろうな、当然だけど。
そういえば陽介もぶつぶつ文句を言いつつ、休日に勉強していることが多いもんな・・・。
などと考えながら感心して俺が言うと、コーヒーを飲みかけていた先生は笑い出し、少し咳き込んでから俺を見る。
「寝すぎで疲れるって、それ、寝ないよりももっと凄くないか。面白いよなぁ、やっぱり。直」
と、言って、またひとしきり笑った。
「・・・そんなに笑うことじゃないですよ、結構いると思いますよ、そういう人」
「いやいや、少なくとも俺の周りで疲れるまで寝るなんて人は、あなただけです」
と、更に笑い転げる先生を見ながら、一体何がそんなに可笑しいんだろう?と俺は思う。
何だか最近、俺が何か言う度にこんな風に笑ってないか?先生ってば。
しかも俺自身は、そんなに面白いことを言っている自覚はない・・・というか、絶対に普通のことしか言ってないと思うんだけど・・・。
まぁ、怒られたりするよりはいいけれど、でも俺の言う事ってそんなにおかしいか・・・?
普段病院では全くと言っていいほど笑わない先生が笑っているのを見るのは嫌じゃない。嫌じゃないけれど、でも、意味も分からず笑われるのはちょっと悲しい気が、するような・・・。
「・・・じゃあ、付き合ってもらおう」
笑いをおさめた先生が、悶々と考え込んでいた俺に言った。
え、どこに?と思ってきょとんとする俺の手から取り上げたマグカップをテーブルの上に置いて、先生は微笑む。
「君も明日一杯、休みだって言ってたよな?」
「・・・はい、そうです、けど・・・?」
「俺も休みだからさ、“疲れるまで寝る”って、やってみましょう。2人で」
と、先生は言って、俺を強く抱き寄せた。
その後居間のソファーで1回、ベッドに移動して ―― 何回だったっけ?
・・・よく分からないけど、とにかくその日は、何もせずにただ会っていた最近の数回分を取り戻そうというようなやり方で求められて、途中で訳が分からなくなってしまった。
はっと目覚めた時はもう朝で、カーテンの隙間から差し込む日の光が、床に細い線を描き出していた。
ざらざらとした質感のその光をぼんやりと眺めながら俺は、
これは“疲れるまで寝る”んじゃなくて、“疲れすぎて起きられない”っていう状況なのでは・・・。
と、考えていた。
先生は俺の隣にいて、まだ眠っているようだった。
彼が起きる前に起きるべきだろうと思ったけれど、身体が重くて起き上がろうという気分になれない。
身体のあちこちに濃い疲労がたゆたっていて、こんな風に目覚めるはずじゃなかったのに、唐突に起こされた感じがする。
誰も起こす人なんかいないし、目覚ましなんてものもセットされていないのに変だな。と少し思った。
慣れない部屋、しかもあの憧れの香椎先生の自宅、というこのシチュエイションに、神経が昂ぶっているのかもしれない。
と、考えた時、電話が鳴った。