24 : あなたにもっと、近付いても
もしかしたら突然起きてしまったのも、電話が鳴っていたせいかもしれない。と思いながら、俺は隣で眠っている香椎先生の肩を小さくゆさぶる。
何度か呼びかけると、彼は目を閉じたまま、
「・・・なに・・・」
と、低い声で呟いた。
「電話、鳴ってますよ」
「・・・んん・・・、放っておいていい」
と、先生は言い、ほぼ同時に電話は鳴り止んだ。
しかしまたすぐに、電話はけたたましい自己主張をし始める。
ベッドサイド・テーブルの上で青く点滅しながら鳴っている電話を見ながら、俺はおずおずと口を開く。
「・・・でも先生、さっきから何度も呼んでるみたいですけど。急用かもしれませんよ」
「 ―― じゃあ、君、出て」
と、先生は気だるそうな声で言った。
「えぇ?出てって、そんな」
寝ぼけてるのか?と思いながら俺は言った。
「もしかしたら、病院からの電話かもしれないじゃないですか」
「病院からの連絡はそこの携帯にしかかかってこない・・・。いいから早く出てくれ、うるさいから・・・、まだ眠いのに・・・」
と、先生は顔をしかめ、布団にもぐりこんでしまう。
また鳴り止まないかな?と思ったけれど、電話は今度は絶対に諦めないぞ。という強固な意志を滲ませながらしつこく鳴り続け ―― 布団の中から再び先生が不機嫌っぽい声で、電話に出てくれと言い ―― 仕方なく、俺はドキドキしながら電話に手を伸ばし、受話器を取り上げた。
取り上げた受話器を耳にあてると、電話線の向こうで女の人が、
『ああもう、やっと掴まえた!!もぉ、あんまり心配させないで!!ねぇ、元気にしてるの?』
と、叫んだ。
『圭子さんに連絡とって、今日は休みだって聞いたから電話してるのに、携帯も固定もさっぱり出ないし・・・もうホント、心配になっちゃうでしょ!
大体ね、何度も何度もメール送ってるんだから、短文でもなんでも、時々は返事寄越したってバチなんかあたらないんじゃないの!?忙しいのは知ってるし分かってるし、何も100%返信しろなんて言わないけど、せめて5通に1通位は返事してよ!と、言うより送ったメールはちゃんと読んでるんでしょうね?
大体、あれほど言ったのに結局お正月にも帰って来ないし・・・そんな風に意固地になってたら、どんどん帰れなくなっちゃうわよ?って、もう他はどうでもいけど、私には会ってもいいんじゃないの?何年会ってないと思ってるのよ、あそこで居心地悪いのは私も同じだってこと、分かってるでしょ・・・ ―― って、裕仁?聞いてる?起きてる?』
「・・・、・・・あ、あの・・・、俺・・・・・・」
一気にまくし立てられて口を挟むタイミングが掴めずにいた俺が、自分の存在をどう説明すればいいのかと悩みつつ口を開くと、相手は一瞬びっくりしたように口をつぐんでから、あら、ごめんなさい!と言った。
『てっきり裕仁だと思って・・・、裕仁は?いるの?』
「・・・ええと、今は・・・」
隣で眠っている先生をチラリと見て、俺は語尾を濁す。
眠ってる、なんて言っちゃっていいのか?
先生に“出て”と頼まれたとはいえ、こんな風に電話に出たのはまずかったかもしれない・・・。
俺がそうやって躊躇っているのを知ってか知らずか、彼女は、まだ寝てるのね。とひとりごちた。
そして再び明るい声になって、
『・・・ええっと、もしかして、もしかしなくても裕仁の・・・弟の、恋人なのよね?』
「・・・っ、いやあの、違うんです、俺は・・・」
『んー、照れてる照れてる!可愛いかも!
そうね、まず自己紹介しなきゃね。初めまして、私は香椎裕仁の姉 ―― ちなみに下の方の姉なんだけど、百合子っていうの。
それにしても裕仁にそういう人がいるなんて知らなかったから・・・安心したわ、なんか』
「・・・そんなんじゃないんです、俺・・・」
『まだ照れてるの?ああ、それとも同性ってことを気にしてる?大丈夫よー、裕仁がそういう趣味があるって、ずいぶん前から知ってるから。裕仁、全然隠す気ないしね』
「・・・だから俺は、本当にそういうんじゃなくて・・・」
『そういうんじゃないなら、こんな風に電話に出させたりしないでしょ』
自信たっぷりな口調で、お姉さん ―― 百合子さん ―― は言った。
『そこにいる裕仁が、そう簡単に自分の家に人呼ぶタイプじゃないってコトくらいは知っているもの。
口下手だわ、素直じゃないわ、その上かなりひねくれてるから付き合うの大変だろうけど・・・、でもね、基本的に悪い人間じゃあないわ。その点は保証するわよ』
「・・・はぁ・・・」
と、俺は言った。
最後に百合子さんは、“裕仁にまた連絡するって伝えておいて”と言い、“今度東京に行こうと思ってるから、そしたら会いましょうね!”と言って電話を切った。
10秒くらい通話の途切れた電話の音を聞いてから、俺はゆっくりと受話器を戻した。
そして隣で眠っている先生の顔を見下ろし ―― 彼の眠りを乱さないようにそっとその額に落ちかかっている前髪に右手の指先を触れさせて、考えてみる。
彼がこうして隣で眠っているという奇跡みたいな状況を、刹那的なものでなく、永続的なものにしようと努力する事は、無駄な事ではないのだろうか。
今まではただ身体だけの関係で、それだけでもいい、少しの間だけでも彼と一緒にいれたらそれだけでいい、他に何も望まないと思っていた。思うようにしていた。
少しでも期待してしまうようなら、迷惑をかけてしまうような執着をしてしまう前に、きちんと自分から身を引こうと心に決めてさえいたのだ。
でも電話で聞いただけだけとはいえ、百合子さんの確信に満ちた言葉を聞いて、その決心が一気にぐらついてしまった。
“身体だけの関係でもいい”と思っていた、その考えに嘘はない。それは本当だ。
けれど俺が彼を愛している、その何分の一でもいい、彼に愛してもらえたら、どんなに素敵だろうと考えた事がないと言ったら、それも嘘になる。
その夢が現実になるかもしれないとか、現実にする為の積極的な努力をしようなどとは思わなかった。けれど意識下では何度も、そういった夢が現実になったらという想像をし続けていたようにも思う。
百合子さんが言ったように、俺は先生の周りにいる他の人とは違う位置に立つ事が出来ているのだろうか。
だとしたら俺は、その立ち位置を更に確実なものにするよう、努力してもいいのだろうか。
傷つく事を恐れ、じっと動かずにうずくまり、相手が働きかけてくる事だけに応えているようでは、何も始まらないのだ。
当たり前の事だけれど・・・・・・。
香椎先生。
もう少しあなたに近付けるように、頑張ってみてもいいですか・・・?
部屋に差し込む光が徐々に光度を上げてゆく中、俺は幾度も、無言で、彼の寝顔に向かってそう問いかけ続けていた。
結局その日曜日、彼がきちんと起きたのはお昼過ぎで、俺が朝の電話が百合子さんからだったと伝えると、電話、出てくれたんだ?と驚いた様に言った。
眠いから出て。って何度も言われたから出たんじゃないか!と内心思いながら、やっぱり出たらまずかったですか?と尋ねる。
彼はいや。と首を横に振り、まずいって事はないけど、あいつ、余計な事を話しただろう?と言って苦笑した。
つまりあの時先生は半分以上眠っている状態で、俺に電話に出てくれと言った事を覚えていないというオチだった訳で・・・。
つまり、俺の唯一の心の拠り所だった百合子さんの見解が、ものの見事に崩れ去ったわけだ。
月曜日、日勤勤務前に病院の廊下を歩きながら、俺はそう考えてくさくさしていた。
少しは期待してもいいのだろうか、勇気を出して努力してみようか、と思った次の瞬間にあんなの、酷すぎる ―― って言うか、勘弁して欲しい。
酷いと言っても、俺が勝手に期待して勝手に落ち込んでるだけで、香椎先生は何にも悪くないのは分かっているけれど・・・。
香椎先生と一緒にいる限り、こうやって精神FUJIYAMA状態なんだろうなぁ・・・、といううんざりしたような気分にはなってしまう。
そのうち、三半規管がどうにかなっちゃうかもしれない・・・。
いや、もういっその事、どうにかなっちゃった方が楽なのかも・・・。
などと半ば自棄ぎみに考えながら廊下を歩いていた俺は、後ろから呼びかけられて足を止めた。
条件反射的に微笑みながら振り返り、どうしました?と言った俺は ―― そこに立っている人を見て、驚きの余り凍りつく。
「 ―― 久しぶりだな、直」
複雑な感情が入り混じった微笑みを浮かべ、浮かべた微笑と同じ位の複雑な声で、彼は言った。
それでも、俺は中々声があげられない。
「直」
と、再び彼が俺を呼んだ。
「 ―― 悦郎、・・・」
と、俺は言った。
震える唇でなんとか呟いた自分の声は、深くひび割れたものとして、耳に届いた。