Fight C Luv

25 : ウワサバナシ

「 ―― 直を酷く傷つけたのは分かっている。でもあの時は直と殆ど会えなくて、寂しかったんだ。去られてみて初めて、失ったものの大きさに気づいた・・・ってさ、三流ドラマの見すぎだろ。うぜぇよ。うぜぇ。うざすぎる」
 前半悦郎の口調を真似てから、その後を吐き捨てるように、陽介が言った。
「しかも明日の午前中に仕事が終わるなら、その頃、この病院前の喫茶店で直が来るまでずっと待ってる、ってさ、お前はストーカーか、っての。
 直、お前、帰りマジで気をつけろよ。あいつ、何をやりだすかわかんねぇぞ。つきつめた顔してたし」

 ちょうどお昼時の混雑した食堂の片隅で、声を抑えた陽介が言うのを聞きながら俺は、ぐったりとして額に手をあてがう。

 ・・・うかつだった。
 就業時間前に時間があるからと、人気のない病院屋上に行って話をしたのだけれど、あそこに陽介がいたなんて・・・。
 いや、実は看護師や医師が気分転換に煙草を吸ったり、歓談するスポットだった(俺はそんなこと、全く知らなかった)というその場所に、陽介しかいなかったのは不幸中の幸いだったのだけれど・・・。
 そもそも俺は、ちょっと話があるんだけど。と言った悦郎の“話”というのがまさか、よりを戻そうなどという内容だなんて、思いもしなかったのだ。

 悦郎とは俺が大学から大学院に移り、そこを卒業するまでの3年ほどの間、付き合っていた。
 彼は俺より2つ年上で、俺と同じ大学の薬学部を卒業し、今は(たぶん今も)大手製薬会社に勤めている。
 でも付き合って3年が過ぎた頃、彼に俺の他に好きな人 ―― 同じ会社の同僚だと聞いた ―― が出来たと言われ、俺達は終わったのだ。つまり、俺がふられたわけだ。
 一方的なその通達と二股をかけられていたという事実に相当ショックを受けたけれど、その反面、仕方ないと思う部分もあった。

 その頃の俺はこの病院に勤め始めたばかりで慣れない環境に適応するのが精一杯だったし、しかも精神科にカウンセリング・ルームが出来たばかりで、もの凄く忙しかったのだ。
 毎日毎日残業に次ぐ残業で疲れ果て、休みの日は死んだように眠っているという感じで ―― 2人で会う事もままならなかった。
 こんなの、付き合っていると言えるのか?と俺はよく自問していたし、それは彼も同様だっただろう。
 近くに住んでいるのに遠距離恋愛状態なんて、救いようがない。

 だから俺は、申し訳なさそうな顔をした彼に“お前以外の人を好きになってしまった”と言われてショックだったのは勿論だけれど、彼の相手が女性だと聞いたため、彼を責めることもしなかった。
 恋人には常に体温を伝え合える近しい距離が必要不可欠である。という話はよく聞くし ―― そういう意味では自分に全く落ち度がないとは言えないと思った。
 それにそもそも俺のように同性でなくては全く恋愛感情が芽生えないというのでなければ、異性と恋愛をした方が自然なことであるのは絶対的に確かなのだ。
 その考え方で行くと俺が彼を責める権利はないように思え、とても辛かったけれど、悲しかったけれど、仕方ないと ―― 悦郎だけが悪いのではないのだから、と自分に言い聞かせて ―― 見苦しく彼を責めたりせず、別れる事に同意したのだ。

 それなのに、今更なんなんだよ?
 会えなくて寂しくて、他の人を好きになろうとしたけど、やっぱりお前が忘れられなかった ―― なんて言われても、どうしろと言うのか。
 そんな事を言い出したら、俺だって会えなくて寂しかった。
 でもだからって他の人を好きになろうなんて俺は思えなかったし、考えもしなかった。
 あの時の俺は、絶対に悦郎でなければ嫌だった。
 そう、裏切ったのは ―― 彼と相手の人がどういう関係だったのかなんて知らないけれど、どんな関係であったとしても俺にとっては同じ事だ ―― 明らかに悦郎の方じゃないか・・・。

 ・・・でも・・・、今、俺が身を置いている、この状況であんなに甘く優しい、そして熱心な言葉をかけられるのは、正直言ってキツかった。
 反射的に嬉しさのような気持ちが沸いて来てしまって、かなりグラグラする。

 その揺れは心の奥底の、俺自身すら知らない場所に残存していた悦郎への未練から派生するものなのだろうか。
 それとも、香椎先生への報われない想いから逃避したいという願いから派生するものなのだろうか。

 ―― 分からない。分からないから、苦しい・・・・・・。

「 ―― 香椎先生・・・!」

 ふいにそう声が上がり、俺は驚いて逡巡の坩堝から現実世界に戻った。
 顔を上げると、陽介が座っている場所のすぐ後ろの柱の影から、香椎先生が出てきた。
 彼は白衣のポケットに両手を突っ込み、俺なんかには目もくれず、足早にその場を立ち去ってゆく。
 そんな彼の背中に向かって幾度かその名を呼び掛けたのは、オペ室ナースの三田村さんだった。
 掛けられた声を完全に無視して香椎先生が休憩室を出て行ってしまったのを見届けてから軽く溜息をつき、三田村さんはついていたテーブルの上を片づけ始める。

 そして立ち去りぎわ、三田村さんは何故かちらりと俺の方に意味ありげな視線を送ってきた ―― 気がした。

 食堂を兼ねた広い休憩室の為、全ての人がその様子を見ていた訳ではない。
 しかしたまたま香椎先生と三田村さんの周り、半径2、3メートルの範囲内に座っていた人達は、彼等の穏やかとは言えない様子を見て押し黙り、三田村さんの姿が扉の向こうに消えた途端、何だあれ?とか、どうしたんだ?などと囁きあう。

 やがて俺と陽介の斜め隣の大きなテーブルに固まって座っていたナースの内の一人が声を潜め、ここだけの話だけどね ―― と言い、そこで勿体をつけるように言葉を切る。
 声を潜めるそぶりをしているものの、それは明らかにテーブルに座っている仲間だけでなく、その周りにも自分の知っている情報を効果的に披露したいという色が透けて見えた。

 テーブルについているナース達は、なになに?という風に身を乗り出し、その周りの人もさりげなく聞き耳をたてているような雰囲気があった ―― むろん、俺もその中の一人な訳だが。
 普段、女性がする噂話には余り興味はないのだけれど、話題の中心が香椎先生であることが確実なだけに、看過出来なかった。