26 : 冷たい視線
「これはただの噂じゃなくて、かなり信憑性の高い話なんだけれど」
彼女はゆっくりと言って一通りテーブルを見回し、
「香椎先生と三田村さんって、ちょっとした仲みたいよ」
と、続けた。
「え、ホントぉ!?」
「年齢差が結構あるんじゃない?」
「でもあの2人、前からつき合ってるって噂、あったよね」
「やっぱり、火のないところには煙は立たないってこと?」
などと、そのテーブルを囲んだナース達が口々に言った。
「うん、そうみたい。
大体年齢差って言っても、確か5、6歳よね。そのくらいだったら、関係ないわよ」
きっぱりと、得意げに、彼女は断言する。
「それにね、香椎先生と三田村さんって同郷なのよ。しかもこの病院に勤務し始めたのも同時だし」
「え、そうなの?」
「そうよ。当時私、オペ室にいたからこれは確かよ。元々私はオペ室を出たかったから、三田村さんと入れ替わりで小児科に移ったの。
香椎先生は宮崎市にある大病院の長男で、三田村さんもやっぱり宮崎の病院からここに移ってきて・・・三田村さんの勤めていた病院が香椎先生の実家の病院なのかどうかははっきりしないけど、ただの偶然にしてはちょっと出来すぎっていうか、有り得なくない?いくら世間は狭いって言っても、宮崎から東京よ?
それだけじゃなくってあの2人、外で会ったりもしてるみたいなの。これは小児科の先生が見たって言ってた話なんだけど、2人で新宿の西口界隈を歩いてたって」
「それってつまり、デートってこと!?」
「さあ、そこまでは知らないけど、ただの医師とナースの関係だけって感じじゃ絶対になかったって言ってたし、職場以外の場所で2人きり・・・なんて、あやしくない?」
うんうん、あやしい、絶対あやしいー!と、みんなが小さな叫び声を上げる中、俺は電話で聞いた香椎先生のお姉さんの言葉を思い出していた。
先生が眠っている間に俺が出た電話の向こうにいた百合子さんは第一声で、圭子さんに連絡をして香椎先生が家にいるのを知った、というような事を言っていた。
オペ室ナースの三田村さんの下の名前は確か、圭子といったはずだ。
つまり百合子さんが言った“圭子さん”というのは、どう考えても三田村さんの事だ。
つまりナース達の噂話通り、先生と三田村さんはただの同僚とか、顔見知りというだけの間柄ではないのだろう。
百合子さんが俺の事を“恋人なんだよね?”などと言っていたけれど、百合子さんも香椎先生とはもう何年も会っていないみたいな口ぶりだったし、今現在、香椎先生が三田村さんと付き合っているという事を知らなかったのだ、おそらく。
さっき三田村さんが俺をちらりと見た視線、あれは気のせいなどではなく、自分の彼氏に手を出すな。という無言の牽制だったのかもしれない・・・。
確かに俺は彼の恋人になど、なれなくていいと思っていた。
しかし先生が付き合っている人を目の当たりにしたりするのは、さすがに辛い。
勝手な意見である事は百も承知だ。でもやっぱり、先生の彼女と同じ場所で働くのは、辛すぎる・・・。
そう思ったとたん、目の奥がじわりと熱くなった。
俺は必死で涙を堪えながら、立ち上がる。
目の前にいる陽介に何か感づかれたりしたら困るので、1人になりたかったのもある。
しかしそれよりなにより、もうこれ以上、香椎先生と三田村さんの仲について詳しい話を聞いていたくなかった。
お先。と陽介に微笑みかけ、俺はさり気無い程度の素早さで休憩室から逃げ出した。
その日はそれからずっと、三田村さんが俺に送ってきた冷たい視線(後から思い返すと冷たかった気がしてきていた)を思い出しては落ち込み、落ち込む自分が情けなくて更に落ち込む ―― という無限ループ状態に陥っていた。
そう、先生に彼女がいたからと言って、俺が落ち込む理由などひとかけらもない。
もともと俺と香椎先生はつき合っている訳ではないし、身体だけの関係でもいい、それだけでいい。と決心して続けてきた関係のはずだ。
ならば俺は一体、何を落ち込んでいるんだろう?
自問するまでもない、そう、俺は彼に抱かれているうちにいつの間にか、気づかないうちに期待を育ててしまっていたのだ ―― 馬鹿だ、と思った。
本当に俺は、救いようのない馬鹿だ、・・・。
人気のない深夜の病院で激しく自分を激しく蔑みつつ、俺は頼まれる仕事を機械的にこなしていた。
普段と違ってその日は夕方から深夜にかけてなんだかんだとトラブルが重なり、それなりに忙しかったのは僥倖というものだった。
いつものように暇な時間があったら、色々と考えすぎてどうしようもなくなっていたに違いない。
そうして深夜3時が過ぎた頃、坂上さんに、夜メシ食ってこい。と言われた。
秋元、夕方から全然休んでいないよな、と。
分かりました、じゃあちょっと休憩してきます。と俺は言って、科の部屋を出た。
午前3時に夕食?と思うかもしれないが、別にこれは特別な話ではなく、夜勤の時はこの時間に夕食(というか、夜食)を取る事も多い。
病院に勤務したての頃は“こんな時間に何か食べようなんて気にならないだろう”と思っていたけれど、今では仕事中、この時間になるときちんとお腹が空くようになるのだから、人間の適応力というのは凄いものだ。
でも今日は香椎先生の事で精神的に落ち込んでいて、何かを食べる気にはなれなかった。
休憩室でたっぷりとミルクを入れたコーヒーだけを飲んで、ロッカールームで仮眠しようかな。と思いながら廊下を歩いていると、突然前方のドアが開いた。
俺は心底びっくりして、上がりそうになった悲鳴を必死で飲み込み ―― 当然だ、そこは診察室のドアが並ぶ廊下で、こんな深夜に人がいる筈のない場所なのだ ―― 立ち止まる。
開いたドアから顔を出したのが香椎先生であると認識した次の瞬間、言葉を発する間もなく診察室に引きずり込まれる。
「・・・な・・・、なんですか、一体」
引き込まれた部屋の中で、俺は尋ねた。
黙って扉を閉めて振り返った香椎先生は、
「ちょっと話がしたいな、と思ってね」
と言い、口元だけで微笑んだ。