Fight C Luv

27 : 闇に沈む白い壁

「・・・あの・・・、話って、なんですか」
 と、俺は言った。
 先生は俺のその質問をさらりとやりすごして診察室の奥へと向かい、デスクの前にある椅子に腰を下ろす。
 そして顔に浮かべた微笑みを消さないまま俺を見上げ、座って。と言った。

 デスクの前の椅子に座った先生の側には、もうひとつ空の椅子があった。
 それは診察をする時に患者さんが座る椅子であり、それは先生の膝から30センチも離れていないような所に置かれている。

 当然と言えば当然ではある。
 医師が手を伸ばして届かないような場所に患者が座ったら、診察が出来ない。
 しかしこの状況で俺がそこに座るのは、ちょっと先生に近すぎる気がした。

 いや、“ちょっと”じゃない。“気がする”じゃない。
 近すぎる。余りにも近すぎる。明らかに。
 だがわざわざ椅子を遠くにずらして座るのもわざとらしいし、おどおどとそんな事をするのも悔しかった。

「座れって」
 戸口の前に立ったままぐずぐずしている俺に、先生が重ねて言う。

 もしかしたら三田村さんに俺の事が知られてしまった事に関する話なのかもしれない。と思った俺はひっそりとひとつ、息をつく。
 そして、何を言われても、決して負の感情を見せたりしないように。と自らにきつく言い聞かせてから、ゆっくりと先生の側に歩いて行った。
 そして ―― やはり先生のすぐ前にある椅子に座るのは躊躇われたので ―― 壁際に置かれている診察台の端に腰を下ろす。
 そこなら先生からは斜めの位置になって遠いから、ちょうどいいだろうと思ったのだ。

 が、先生は位置を少しずらすようにしながら椅子をくるりと回転させ、その距離をすぐに埋めてしまう。
 距離云々というより、先生の両膝の間に俺の両足が挟まれているような状態で、どう考えてもこんなの、落ち着いて話が出来るような位置関係じゃない。
 これなら素直に(後ろに逃げ場がある)椅子に腰掛けていた方が良かったと思うが、明らかになにもかもが今更だった。
 なんだか、自分で自分の首を絞めた気が、するような・・・しないような・・・するような ――――

 ―― と、ぐるぐる後悔している俺を見上げた先生が、さり気無いやり方で俺のふくらはぎに手をかけた。
 それだけのことで、俺はびくりと飛び上がってしまう。

「先生、話があるんですよね!?何でしょう・・・!」
「・・・なにもそんなに慌てなくても」
「慌てなくてもって ―― 慌ててはいませんけど、誰か入ってきたら困りますし」
「誰か入って来たら?
 んんん、ま、その時はその時、って事で」
「なにを言ってるんですか・・・!」
「 ―― そんな大声出すと、気付かれる確率が上昇すると思うけど」
 笑いながら先生に指摘され、俺は慌てて口をつぐむ。
 そんな俺を何故か満足気に見る先生の手が、ゆっくりと、何度も、俺の足首からふくらはぎのラインを確かめる様になぞる。

 その間も、先生は何だかんだと俺に話しかけていた。
 しかしそれは全て時候の挨拶を少しだけ複雑にしたというレヴェルのもので、とてもわざわざこんな所に俺を引き込んでまで言う話とは思われない。
 触られている足をずらしたり(と言っても先生の両膝の間での話だから、どう必死で動かしても限度がある訳だけど)、俺に触れる先生の手を掴んで抵抗したり、勿論口頭でも散々やめてくれと言ったのだけれど、先生はいつも通り、俺の言動など少しも気に留めていないようだった。

 やがて先生の手は膝を通過して太腿にかかり、その親指が内股に滑り込んできて ―― 流石に黙っていられなくなり、
「せ、先生!待って下さい、三田村さんの事はどうするんですか!?」
 と、俺は叫ぶ。
 その瞬間に彼の手の動きがぴたりと止まり、一瞬遅れて驚いた顔をした先生が俺を見上げた。

 いつも冷静で表情を崩さない先生がこんなに動揺するなんて、やはり2人は知り合い以上の関係なのだろう。
 予想して、覚悟していた通りではあったけれど、あからさまな先生の反応を見るとちくちくと胸の奥が痛んだ。

「どうしてここに突然、その名前が出てくるんだ」、と彼が一呼吸間を置いて言った。
「だって・・・、もうまずいんじゃないんですか、こういうの」、と俺は言った。
「もうまずいって、どうして?」
 と、彼は言い、一旦止めた手の動きを再開する。
「彼女はいわゆるOLナースだから、この時間には絶対に病院にはいない。まずいも何もないだろう」
「・・・いないからいいとか悪いとか、そういう問題じゃないと思います、・・・」
「じゃあどういう問題?もしかして、何か言われた?」
 と、訊ねる先生の手が、ズボンのベルトにかけられる。
「・・・っ、別に何も・・・、でも、お付き合いなさってるんですよね」
 先生の手を強く押さえながら俺が言うと、彼は再び手の動きを止め、
「・・・それ、どういう冗談なんだ」
 と、何故か叱るような口調で言い、俺をきつく睨んだ。

 2人でいる時にこんな口調で話したり、こんな鋭い目をしている先生を、俺は見た事がなかった。
 びっくりして、一瞬言葉が出てこなくなってしまう。

「・・・ ―― あ、あの、俺・・・」
「今のこの状況でそういう事を言われるのは、実に不愉快だ。今の自分の立場がどういうものか、考えろ」
「・・・、た、立場って、それはどういう・・・っ、・・・っ!!」

 俺が訊き終わらないうちに立ち上がった先生の手が、俺の胸ぐらを掴み上げる。
 その乱暴めいたやり方に驚いて抵抗する間もなく、香椎先生は俺の身体を反転させ、そのまま壁に押しけた。

 薄闇に沈んだ白い壁が、視界いっぱいに広がった。