29 : あなたが望むことならば
「せ、先生・・・・・・」
と、俺は思わず彼を呼ぶ。
「なに?」
俺を貫きかけている荒々しさとは真逆の冷静さに彩られた声で、先生が答える。
その声を耳にした刹那、身体に冷水が浴びせかけられる気がしたけれど、でもその冷たさで身体の内部の沸騰がひいたのはほんの一瞬で。
いつもより早い速度で身体中を駆け巡る血流はすぐにまた、ふつふつと煮えたぎってゆく。
「なにかな?」
と、再び先生が訊く。
その先生の声には、うっすらと笑いの雰囲気が漂っている。
むろん、彼は分かっているのだ、俺が何を求めているのか。
俺が彼を欲しくて、欲しくて、どうしようもなくなっているのを、知っているのだ。
泣きたくなる。
どうしてこんな恐ろしい人が、こんなにも好きなんだろう、俺は。
抱かれれば抱かれるだけ、彼に惹かれてゆく。
惹かれれば惹かれるだけ、彼から逃げ出す余地がなくなり、囚われてゆく ―― 心も、身体も。
いや、俺自身、本心から逃げたいなどと思っているのだろうか?
“もうやめるべき”なんて考えていても、それは表面だけの話で ―― 例え三田村さんが俺に直接、彼と金輪際会わないで欲しいと言ってきたとしても、俺はその通りに出来るだろうか?
出来やしない。
そんなこと、俺に、出来る筈がない。
彼にどこそこで待っていろと一言命令されたら最後、きっと俺はいけないと思いつつ、指定された場所に行かずにはいられないだろう。
そして身を切り刻まれるような後悔と引き換えに、この痛いほどの快楽に身をひたす事を選ぶのだ・・・ ――――
「・・・先生・・・も、はやく、・・・」
小さな、小さな声で、俺は自分の内部に吹き荒れる欲望の嵐の一端を口にする。
ふっと彼が笑ったのが、見なくても分かった。
「そんな風にねだられるのは、嬉しい事この上ないんだけどね」
と、先生は嬉しそうでもなんでもない、普通の声で言った。
「まずは俺のした質問に答えるべきじゃないのか、順番からいって。この勤務が終ったら、君はどこに行く予定なのかな」
「・・・も、お、お願いですから・・・、そんな意地悪、しないでくださ・・・っ、あ、あぁああっ・・・!」
「声を抑えろって、言ってるのに」
と、溜息をついた彼の右手の指が、繋がりかかった場所に忍び込んでくる。
指は躊躇うことなく、浅く先生をくわえ込まされている俺のその場所をなで上げる。
与えられている中途半端な快感が、彼を求める気持ちに更なる熱を加え、腰が小さくくねり出す。
そこでもう一歩、彼が俺に踏み込んでくる。
「あ・・・っ、あ、あぁあ・・・っ・・・!」
「行くのかな、例の喫茶店に」
と、彼が訊いた。
口を開くととんでもない言葉を叫んでしまいそうだったので、俺は激しく首を横に振る。
でも彼は許してくれない。
続けて訊く事はしなかったけれど、中途半端に俺の中に留まったまま、黙って待っている。
俺がはっきりとした答えを口にするのを。
「・・・、き、ません・・・」
「・・・ん?」
喉の奥だけで声を発した先生の指が、もう一度、限りなく優しいやり方で、俺の後孔の周りを這う。
その動きから生じた電流のような快感が、鋭い勢いで背骨を駆け上る。
「い、行きません・・・、絶対、行きませんから、だから、はや、く・・・ ―― っ、あ、アぁあっ・・・ ―― !」
答えたのと同時に先生が離れてゆき、反転させられた身体が今まで以上の強さで壁に押しつけられ、乱暴に両足抱えあげられ ―― それから、一気に、貫かれる。
声を出すなと言われた事など忘れて悲鳴を上げかかった俺の唇を、先生の唇が塞ぐ。
「・・・ん、うぅん・・・っ、んんっ・・・・・・!」
不安定な格好で繋がっているせいだろう、先生はかすかにしか動かない。
けれど自重が加わっているため、沸き上がる快感はどうしようもないほどの、恐ろしいまでに強く、熱いものだった。
声をだせない分、繋がっている場所の感触が鮮明なせいもあったろう。
奥を小さく擦り上げられるたび ―― 俺の内部がひくつきながら彼の肉茎を締め上げるたび ―― 上がりそうになる声を互いの唇で押し殺す。
それでも漏れるどちらのものともつかない荒い息遣いと、消す事の出来ないねばついた水音が、暗い診療室を密やかに満たしてゆく。
やがて、無限なのかと思うように上昇してゆく快楽の、果てが見えてくる。
彼の着ている白衣を破ってしまうのではないかと思うほど強くその肩を掴んでいた俺は何故か一瞬、ちらりと、先生、痛くないかな・・・。などと心配になったりしていた。
でもそれはほんの一瞬の事で、感じる部分を狙いすまして擦り上げられた俺は、あっと言う間に快楽の海につき堕とされる。
身体を強張らせるようにして俺が達した次の瞬間、彼が抱え上げていた俺の足を、ゆっくりとおろす。
壁に沿ってずるずると床に崩れ落ちた俺の唇に、乱暴にゴムを取り去った彼自身が押しつけられる。
そう、まだ彼は達していない ―― もちろんそれを知っていた俺は目を伏せたまま、彼自身を喉奥までくわえ込む。
何でもする、と思った。
先生が望むことなら、何でもする。
例え誰に糾弾されようとも、どんなに恨まれようとも、彼に命令されなくなるまで、彼が俺に飽きるまで、側にいようと思った。
脈打ちながら注ぎ込まれる白濁を躊躇うことなく飲み下してから、ぐったりと床に座り込もうとした俺を、彼の手が引き上げる。
暗闇の中、揺るぎなく俺を見詰めた彼に抱き寄せられ、抵抗虚しく口付けられ ―― 何故か、眩暈がした。
身支度を整えながら、近いうちに会えないかと尋ねられ、自分のシフトを思い出し、答えを返す。
じゃあその辺りに電話する。分かりました。というような会話を交わしながら診察室を出て、少し行った廊下の突き当たりで右と左に別れた。
ゆっくりと自分の科へと戻りながら、俺は悦郎のことを考える。
彼の熱心さに、心が揺らいだのは確かだ。
けれど今のこの状況で悦郎とよりを戻す気など、最初からなかった。
とは言え待ちぼうけというのは酷いから、一応顔は出そうと思っていたのだ。
しかし先生と約束してしまった以上、彼に会うわけにはいかない。
申し訳ないとは思うけれど、悦郎にはそれを答えとして納得してもらうしかなかった。
そもそも浮気したのは悦郎なのだから、これで差し引きゼロにしてもらおう。と俺は思う。
そう心を決め、息をつきながら廊下の角を曲がった所で、俺は突っかかるように足を止める。
廊下を曲がった直ぐそこの暗がりに、陽介が立っていたのだ。
「・・・っ、よ、陽介、びっくりした・・・!」
と、俺は言い、笑った。
が、対する陽介は少しも笑わない。
「・・・陽介、どうかしたのか・・・?」
いつもと違う陽介の様子に俺が訊くと、彼はまっすぐに俺を見据えた。
そして俺の質問には答えずに訊き返す、「お前今まで、誰と、どこにいた?」