31 : 現実世界の裏側で
「・・・お前・・・、本気でそんな事言ってんのか・・・」
と、陽介が呆然とした声で言う。
俺は頷く。
「陽介が言いたい事は分かっていると思う。こんなのおかしいって・・・馬鹿なことをしてるっていうのも分かってる、頭ではね。でも自分でもどうしようもないんだ。
とにかく俺は先生が好きで、少しでも長い時間、先生と一緒にいたいと思ってる。余計な要求をして一緒にいられる時間を短くするくらいなら、このままでいい」
「・・・そんなの、時間が経てば経つほど辛くなるだけだろ、・・・」
と陽介は言い、深い深い、ため息をついた。
「それも全部、承知の上なんだ。
勿論、俺自身がやっぱりもう駄目だって思う日が来るかもしれないけど、今のところ香椎先生が俺に飽きちゃう日が来るまで、誰に何を言われてもやめる気はない。
・・・ごめん、陽介」
陽介は何も答えず、疲れきった様子で上げた右手で額を押さえ ―― そのまま長いこと、動かなかった。
本当にぴくりとも動かないので、傍から見たらまるで座ったまま眠ってしまったように見えたかもしれない。
しかしもちろん陽介は眠ってなどおらず ―― 動かないままに彼が、いろいろな事を考えているのが分かった。
それは、何とかして俺を説得できないだろうか。とか、どうすれば今のこのとんでもない状況から俺を脱却させられるか。とか、そういうカテゴリに属する逡巡であることは明白だった。
けれど俺の決心が覆らないことは、俺自身だけでなく、本当は陽介も分かっているのだ。
そう、長いつきあいになる陽介は、俺が一度こうと決めたことを簡単に覆さないことを知っていた。
それでも ―― それを理解していてもなお、何とか出来ないかと必死で考えてくれている陽介の様子を見ている内に俺は、申し訳なくてたまらなくなる。
俺は自らの意志で、望んで、このどうしようもない状況にはまり込んでいるのだ。
そんな俺のことで、こんなにも陽介を悩ませている ―― それが何よりも、俺は嫌だった。
「 ―― あのさ、陽介。俺は大丈夫だから、本当に」
と、俺は噛んで含めるように言った。
「陽介が思っているほど、悲壮感とかはないんだよ。
確かに悩んだ事もあったし、陽介に嘘をついてるのは辛かったんだけどさ・・・今回こうして話せた事である意味ホッとした部分もある。
これからも引き続き、余計な心配をかけるのは申し訳ないけどね」
俺がそう言うと、陽介は一度、深く深呼吸をしてから顔を上げ、
「2つだけ、約束しろ」
と、言った。
「・・・2つと言わず、3つでも4つもいいよ」、と俺は言った。
「いや、2つでいい。でもこの約束だけは、何があろうと絶対に破るな」
「 ―― 分かったよ。なに?」
「ひとつは、もう俺に嘘をついたりするな。お前はそういうのが下手だから、全部嘘だって分かる。見てて辛いんだよ」
「・・・うん・・・、分かった」
「 ―― よし。で、もうひとつは・・・この件に関して何かあったら、何でもいいから相談しろ。愚痴でも泣き言でも、何でもいい。話して楽になる事があるんだったら、何でも聞いてやるから、・・・」
呟くように言った陽介の、本当は心配で仕方ない、という想いが滲む声 ―― それを聞いた俺は訳もなく胸が詰まった。
ありがとう、と言うお礼の言葉が、どうしても、声にならない。
呼吸が出来なくなりそうのを何とかやり過ごし、俺はただ、黙って頷いた。
俺と香椎先生の関係はその後も静かに、密やかに続けられた。
彼からの連絡を待ち、指定された場所に行ってその近くで食事をし、ベッドを共にする ―― 変わらない、まるで契約でもしているかのような流れだった。
そうしているとやがて、食事をするのと抱き合うのがひとつの決められた流れででもあるかのように思えてくる。 食事までもが、抱き合う行為の前戯であるような気がしてくる。
同じ店の同じテーブルで、同じ料理を同じ速度で食べ、違う言葉を操りながら会話を交わし、しかし頭の中では同じ事を考えている。
これから2人の間で行われる(のであろう)行為について。キスについて、抱き合うことについて、互いが今、身に付けている服をどう脱がしてゆくのかについて ―― そして最後、身体を溶かされ、溶かすやり方と、そこから生じる灼熱について・・・ ―― 。
今まで付き合った恋人達に対して、こんな風に感じた事は一度もなかった。
香椎先生に関して、自分はちょっとおかしいのではないかと不安になるのは、こんな時だ。
とはいえ俺は彼に対して、決して変な無理を言ったりやったりはしなかった。
同性も恋愛対象になると公言している香椎先生はおもしろおかしく噂のネタにされる事が多かったけれど、彼と俺は全くそういう話題に上ったことはなかった。
俺は昔からよく思っていたのだけれど、秘密の関係が周囲に露見した後で人は必ず、「ばれないように細心の注意を払っていたんだけれど」などと言う、あれは嘘だ。
心のどこかで周囲に自分たちの関係について知って欲しいと思い、その無意識の願望が無意識の内に外に現れるからこそ、秘密というものはばれるのだ。
周囲の人が気付いたのではない、本人達がそれを周囲に気付かせているのだ。
そう ―― 例えば意味深な視線を交し合ってみたりだとか、相手と話す時に妙な雰囲気を醸し出してみたりだとか、他の人に対する優しさよりもほんの少しだけ、しかしどこか決定的に違う気遣いをみせたりだとか・・・、そういう事をするから事が露見し、秘密は白日の下に晒されるのだ。
つまりそういう事を一切しなければ、秘密の関係というものはそう簡単にばれたりしないものなのだ。
唯一俺と香椎先生の事に気づいた陽介は俺達の関係についていい顔はしなかったものの、いつも通り表立って俺に強く意見しようとはしなかった。
きっと内心では色々と思うところがあっただろう。しかし反対の言葉は一切口にしなかった。
俺がいつも、忙しい時期には中々会えないのが、寂しいんだよね。とか、もっと会えたら嬉しいんだけどさ。とか、そういう類の普通の恋人同士が言うような愚痴しか言わなかったからかもしれない。
別に無理をしていた訳ではないけれど、陽介にそういう事を言っていると辛かったのが楽になるような気がして、やがて俺は、このままこんな関係が半永久的に続いてゆくのではないかとさえ思った。
どう考えてみてもそんなの有り得ない、非現実的な妄想なのだけれど、元々俺達の始まり方自体が現実的という部分からは程遠かったのだ。
だから、俺達が顔を合わせた瞬間に時を刻み始める非現実から生まれた非現実的なストーリーは、非現実の中で ―― つまり現実世界の裏の部分で、永遠に続けてゆけるかもしれないと、半ば信じかけていた気がする。
けれどそれは夢で、ただの夢で ―― 非現実は文字通り現実ではなく ―― 俺達の関係は、じっくりと火で炙られたナイフでバターを切るように、あっけなく終りを告げることになる。
それは予想していたのとは全く違う形でやってきた。
俺の手によってではなく ―― 彼の手によってでもなく。