32 : 汚れた世界
その夜、準夜勤務だった俺は、ギリギリで終電に間に合いそうだったので、時計を見ながら慌ててロッカールームを出た。
そして足早に通用口へと急ごうとした、その時 ―― 突然後ろから声をかけられて振り返る。
振り返ったそこには、外科部長の田所さんが立っていて、
「秋元君、ちょっと話があるんだが、いいかな」
と、言った。
驚きのあまり咄嗟に答える事が出来ず、俺はその場に立ち尽くす。
当然だ、こんなのは絶対におかしい。
精神内科に勤務している俺に、外科部長の田所さんが直接話があると言ってくるなんて ―― しかも準夜勤務明けのこの時間に、まるで人目を憚るかのように声をかけてくるなんて、どう考えても異常だった。
その異常さは田所部長も分かっているのだろう、困ったように顔を歪め、
「驚くのも無理はないが、話があるのは私個人ではない。君に話をしたいというのは他の方々 ―― もっとはっきり言ってしまえば、副病院長達がお呼びなんだ」
「・・・え・・・?」
そう言われて、俺はますます訳が分からなくなる ―― 副病院長が俺に、一体何の用があると言うのか。
どうすればいいのか分からずに茫然とする俺の背中に、田所部長が手を置き、「帰りは車を呼ぶし、私も一応同席する。だから何も心配しなくていい」
と、言った。
意味も訳も分からず、促されるまま、俺は田所部長に連れられて病院の最上階フロアにある小さな会議室に向かった。
扉を開けたそこには、3人いる副病院長のうち、2人が座っていた。
1人は耳たぶの下にまで満遍なく肉のついた太った人で、その太い腕に金ぴかの趣味が悪いロレックスの時計をはめており、もう片方の人はその分までダイエットしました、というようなやせぎすの、眼鏡をかけた人だった。
彼らが副病院長である事は知っていた。
だが名前の覚えが薄く、どちらの名前も ぼんやりとした字の影くらいしか思い出せない。
ロレックスをはめた副病院長が吸っている外国製の煙草の匂いが部屋に充満しているせいだろうか、一瞬軽い吐き気を覚えた。
「こんな夜更け、勤務後に呼び出して悪かったね。まぁ、かけなさい」
と、眼鏡をかけた方が言った。
ロレックスの方は尊大な態度で煙草をくゆらせて、身動きもしない。
田所部長に促され、俺はロレックスを腕に光らせた副病院長の前の椅子に腰を降ろす。次いで田所部長が、俺の隣に座った。
短い間があって、ロレックスが窮屈そうに組んでいた足を外して灰皿の中央に煙草の先を押し付けてから、喉に絡まった痰を払うように短い咳をした。
そして言う、「回りくどいのは嫌いだし、時間が勿体無いから単刀直入に言おう。話というのは他でもない、香椎君の事だ。彼から手を引いて欲しい」
俺はもう驚く事も出来ず、呆然として目の前に座るロレックスの顔を眺めていた。
「まぁまぁ、岸谷さん、いくら時間が勿体無いからと言って、そう唐突に話を始めたら・・・、ほら、可哀想に秋元君も驚いているじゃないか。もう少しきちんと説明してあげないと」
眼鏡は苦笑し、俺へと向き直る。
「君の事は色々と調べさせてもらった。勤務態度もいいし、患者からの評判もすこぶるいいようだね」
眼鏡がそこで一旦言葉を切ると、聞いていたロレックスは微かに馬鹿にするように ―― 何を馬鹿にしているのかは分からないが ―― 左の眉を一瞬跳ね上げた。
「君は医者ではないがカウンセラーとしての経歴は長いから分かるだろう ―― 医者というのは単純に腕だけでやっていける世界ではない。コネや口利きがないと上には上がっていけない、完全な縦割り制なんだ」
ロレックスの素振りに注意を払わずに眼鏡は続け、分かるね?という風に俺を見た。俺は小さく頷く。
「君も聞いてはいるだろう、香椎君は福岡にある病院の長男坊なのだ。その病院というのが、日本屈指の脳神経外科専門病院で、そこの病院長 ―― つまり香椎君の父親と、ここの病院長は懇意でね。色々な事情があって実家の病院に勤務するのが難しくなった香椎君をうちで受け入れたんだ。言うなれば、預かっているような形だね」
「今は病院も過渡期だ。病院を開いていれば儲かると言う時代は過ぎ去った。市民の目を引きつけるような目玉を持ってこない限り、競争を勝ち抜くのは難しい」
眼鏡の後を引き継いで、ロレックスが言う。
「そこで我々は ―― この病院と、香椎君の実家の病院が、という話だが ―― 手を組む事にした。こちらとしては一流の脳神経外科病院の肩書きを使えるようになるし、向こうとしては東京屈指の大病院との姉妹提携となって、双方利があるという訳だよ。
それに香椎君の父親は彼に福岡の病院を継がせたいと思っていたのだが、やはり脳神経外科医の長女が自分の権利を主張していて、彼に病院を継がせるのが難しくなった、という裏事情もある。この病院を興した病院長には跡取りがいないから、それなら丁度いいとこの病院を香椎君に任せたいとおっしゃっているんだ」
「香椎先生が・・・ここの病院長に・・・?」
「そう。一人娘と結婚させて、娘婿としてね。
香椎君は病院長の娘さんとはもう何度も会っているし、双方特に異存もなく、話は順調に進んでいる。
そこで本格的に話を纏める前に一応、というような気持ちで香椎君の事を調べてみたら、君の存在が明らかになったという次第なんだ」
そこで眼鏡は小さく顔をしかめながら上から下まで、俺を眺めた。
その視線はどこまでも、俺を蔑み果てたような目だった。
同じようにロレックスが息を吐き、ニコチンで黄色く変色した指に挟んだ煙草に火をつける。
「香椎君にそういう噂があるのは聞いていたが・・・実際、驚いたよ。
とにかく君には早急に、香椎君から手を引いてもらいたい ―― 君も馬鹿じゃないだろうから、君の変態趣味に香椎君をつき合わせ続けるのが彼の為にならないことくらい、分かるだろう」
そう言われても、俺は何も言えない。
彼らの物言いや態度がショックだったというのも、むろん、あるだろう。
だがショックよりも何よりも、俺はこれまでの自分がいかに恵まれていたか、今更ながらに悟ったのだ。
陽介をはじめとして、その両親も、俺の性癖を知った友人も、これまで誰一人として俺にこんな態度や言葉を見せたり言ったりはしなかった。
本当の意味で理解はしていないかもしれないが、少なくとも俺にはっきり分かるようにそれを示したりはしなかった。
それを見ていた幾人かの同性愛者の知り合いに、君は恵まれているよ。と言われたこともあったが、その言葉の意味すら分からないくらい ―― そう、それくらい、俺は恵まれていたのだ・・・。
俺が何も言わないのをどう解釈したのだろう ―― 分からないが、やがてロレックスの方が懐から薄い封筒を取り出して机に置き、それを俺の方に滑らせた。
「何もただで手を引けとは言わない。これで納得してくれないか」
と、言った。
お金だ、と直感した。
それ以外であるはずがなかった。
一気に顔から血の気が引いてゆくのを感じながら、俺は喘ぐように言う。
「いりません、何もいりません。俺は、ただ ―― 」
「中を見てみなさい。そうすれば、考えも変わるだろう」
「待って下さい・・・!」
「中を見なさい」
「いいから、ちょっと見てごらん」
副病院長が口々に言うのに逆らえず、俺は震える手を伸ばして封筒に触れる。 温度などあるはずのない封筒が、何故か酷く熱く感じられた。
ゆっくりと封筒の口を開き、中の紙片をつまみ出す。
封筒よりもっと熱いその紙片には、有り得ないような数字が書き込まれていた。
俺の一か月分の給料の何倍になるのか、計算が出来ない。
俺は慌ててその小切手を封筒の中に仕舞い、元通り封をしてからそれを机の上に置いた。