Fight C Luv

33 : モノクローム

「金額に不満があるのなら、交渉には応じるが・・・ある程度までならね」

 俺がテーブルに置いた封筒から手を離すのを見て、ロレックスが言った。
 そして眼鏡の方に顔を寄せ、何事かを小さな声で短く語り合った。

 気持ち悪い、と感じた。
 この部屋に入った瞬間に覚えた吐き気は、煙草のせいなどではなかった事を、俺は悟る。
 彼らの性根の部分を染めている、人の心までをもお金や権力で何とでもしてみせる。という思考が空気に充満していて、それで吐き気を覚えるのだ。

「お金は、いただけません」
 と、俺はなるべくきっぱりと聞こえるような声を出す努力をしながら、言った。
「・・・それは、交渉する余地もない、という事なのかな?」
 と、眼鏡が尋ねる。
「いいえ、そうではなく、俺はお金のために香椎先生と会っていた訳ではありませんから、ですから・・・」
「ああ、そういう話か。その点なら、はっきり言って君の気持ちなど、どうでもいいんだ」
 と、ロレックスが笑いながら言う。そして俺の気持ちを読んだかのように、
「君は我々の事を、なんという汚い人間だろうと思っているのだろう?」
 と、指摘した。
 驚いて顔を上げると、ロレックスは煙草の煙を口と鼻から吐き出した。
「大丈夫、怒ったりはしていない。その通りだからね ―― と、副病院長達は顔を見合わせ、声を上げて笑い合う ―― しかしね、その通りだからこそ、金を受け取ってもらわない限りは安心出来ないんだよ。汚い考えだと言う奴もいようが、それは違う。我々は合理的で現実主義者なのだ。目に見える、形のあるものしか信じない。
 それに香椎君にも、君が金を受け取ったと言った方が説明しやすいし、色々後を引くこともなくなるだろうからね」
「・・・そんな・・・、香椎先生の将来の為と言うなら、もう二度と会わないようにします、約束します。でも ―― お金だけは、受け取れません・・・!」
 きつく歯を食いしばり、呻くような声で、俺は言った。
「まぁ、そう興奮しないで、よく考えてみなさい。君もこうなってはこの病院に居辛いだろう。無論再就職先は我々が責任を持って紹介してあげるが、それなりに遠くに行ってもらう事になる。そうなったら、色々費用も必要じゃないか。その必要経費と思ってくれればいい。金なんか、いくらあったって困るものじゃないだろう?」
 優しい、諭すような声で、眼鏡が言った。

 全然言葉が通じない ―― 絶望と共に俺は思い、その途端、泣きそうになる。
 けれどここで涙などというものが何の役にも立たない事は分かっていた。

 彼らに泣き落としなんて、絶対に通用しない。これっぽっちも、通用する筈がない。
 だから俺は、自分の中にある精神力を限界まで総動員させ、必死で泣くのを堪える。

「お金は自分で何とかします。働く口も自分で見つけます。先生にどんな説明をしていただいても結構です。反論したりなんかしません。でもお金を受け取ることだけはしたくないんです。お願いですから、許してください・・・」

 泣かないまでも震えは堪えられない声で、必死で、歯を食いしばるようにして、俺は言った。
 でも勿論、2人のどちらも俺の言葉なんか聞いていなかったし、聞こうともしていなかった。

 いつ、どういうタイミングで退職すればいいか、それまで他の人にどういう対応をすればいいか、そして香椎先生とは決して必要以上の口を利かないように、もし何か尋ねられたら、お金を貰って手を引けといわれて納得したと言え、その時の口止め料や演技料もこの金額の内に含まれている・・・等々、細かい指示を出してから、副病院長2人は立ち上がる。
 そして去り際、“その小切手は持ち帰って、今夜一晩よく見て考えなさい。朝になって冷静になれば、考えも変わるだろう”というような事を言い、俺の前に封筒を置いたまま会議室を出て行った。

 会議室の扉が音を立てて閉められた瞬間に頭が真っ白になってしまって、俺は暫くの間、口をきくことも立ち上がることもできなかった。
 恐らく相当長いこと、俺はソファに座ったまま呆然としていたのではないかと思う ―― が、不思議な事にその間、俺の隣に座った田所部長はいつまでも、その場を立ち去ろうとしなかった。

 何も言わず、ただ黙ってそこに座っていた田所部長は、俺が気持ちを整理して顔を上げるのを確認してから、ゆっくりと音を立てずに立ち上がり、優しくなくもないやり方で俺を病院の外に連れ出した。
 そしていつの間にか呼んであった車に俺を乗せてくれ、最後、例の封筒を差し出してくる。

 君に他の選択肢はない、拒否権もないのだと、無言のまま、田所部長が言っているのが聞こえた気がした。
 黙って封筒を受け取り、扉は閉まった。

 タクシーの運転手が、どちらまで?と尋ねるのに少し考えてから最寄りの駅名を返し ―― 後方に流れてゆく夜の景色をぼんやりと見ながら、俺はこれからのことを考える。
 いや、考えても仕方ない。
 どう考えても最終的な結末は決まっている。

 あの汚らしい副病院長たちが言う通り、田所部長が無言で伝えてきた通り、俺に許された選択肢はひとつしかないのだから。
 あの病院長の椅子への鍵を握る女性と、一介のカウンセラーでしかない俺が、同じ土俵で戦える訳がないのだから。
 そもそもの最初から、俺達は付き合っている訳でもなんでもないのだから。

 でも・・・ ――――

 ふいに、ウィンドウ・ガラスの向こうの景色がじわりと滲んだ。

 泣くなよ、情けない。と俺は思った。
 泣いてどうなるっていうんだ、どうにもならないじゃないか、と。

 きつく目を閉じて涙を退けてから顔を上げてみると、あたりの景色は砂を混ぜ込んだように、全てが灰色がかって見えた。

 駅で一度タクシーを乗り換えて目的地に着いた俺は、鞄の中から携帯電話を取り出し、何度も見て覚えてしまった11桁の番号をゆっくりと押す。

 いけない事をしているのは、分かっていた。
 俺に何かを選び取る権限がないのであれば、これは明らかな違反行為なのかもしれない。

 けれど副病院長は言った、“今夜一晩よく考えなさい” ―― つまり渡された小切手に纏わる約束が正式な効力を発し出すのは、明日の朝なのだ。
 それまではまだ、“考える”段階として、効力は保留の状態なのだ・・・。

 俺はそんな埒もない言い訳を頭の中で何度も繰り返しながら、携帯電話を耳に押しあてる。

 香椎先生が電話に出なかったら、これで終りにしようと思っていた。
 終りの線引きを明日の朝ではなく、今立っている足元に引こうと思っていた。
 しかし呼び出し音は、4回目が鳴り終わらない前に途切れる。

「・・・はい」
 と、香椎先生の低い声が聞こえた瞬間、退けたはずの涙が再び溢れてしまいそうになる。
 しかし泣きはらした顔で先生に会う訳にはいかないと、俺は暗い空を見上げて涙を目の奥に戻す。

「・・・あの・・・、俺・・・・・・」
 と、俺が言うと彼はちょっと黙ってからくすりと笑い、
「ああ、君か。今帰り?」
 と、訊いた。
「・・・ええ・・・、あの、こんな時間に電話して・・・ご迷惑に決まってますよね、すみません・・・」
「いや、起きていたから構わないよ。ところで、君から俺に電話かけてくるのって初めてだよな」
「そうでしたっけ」、と俺はとぼけてみせる。
「そうでしたよ。忘れないように手帳に書きとめておくことにするよ」、と香椎先生は言う、「で、どうかしたのか?今、どこにいるんだ」
「・・・先生は?先生は今、どちらにいらっしゃるんですか?」
「家だよ。病院と家をひたすら往復して暮らしてる。家にいなければ病院、病院にいなければ家、って具合にね。基本的に極めて単調な人生なんだ」
「・・・じゃあ、会いに行ったら、駄目ですか?」
 俺は、思い切って言った。

 先生は中ぐらいの間を取って、どうかしたのか?と訝しげに訊いた。

 不審がられるのも当然だった。
 自分から電話をかけた事もなければ、こんな風に会いたいなどという図々しい事を言ったのも、初めてなのだ。

「・・・すみません、本当に。こんなのもの凄く迷惑だって、分かってるんですけど・・・、でも・・・、ちょっと・・・」
「・・・ちょっと?」
「ちょっと・・・、会いたく、なった・・・んです・・・、すみません・・・・・・」
「そんなに何度も謝らなくていい」、と彼は言った、「君、病院の近くにいるのか?迎えに行ってやろうか」
「いえ、大丈夫です」、と俺は言った、「伺っていいんでしたら、すぐに着きますから」
「すぐ?」
「はい。1分くらいで」
「1分?もしかして君、下にいるのか?」

 俺が、実は、そうなんです。と答えると、彼はいやはや、毎度驚かされるね、君には。と呟いた。

「・・・本当に、行ってもいいんですか?」
 と、俺が確認すると彼は、
「いいよ。駆け足で40秒で来てくれるならね」
 と、答えて、笑った。