Fight C Luv

34 : これが最後、これで最後

 部屋に行った俺に彼は開口一番、何かあったのか?と尋ねた。
 それに対して俺は、何もありませんよ。と答える。そして本当に変わった事は何もないのだというのを示す為に、にっこりと微笑んで見せる。

 前にも言ったけれど、こういう事は分かってもらおうとこちらが思わない限りは、簡単に相手に悟られたりはしないものなのだ。
 真実も嘘も、今は何ひとつ彼に知って欲しくなかったので、俺の演技はアカデミー賞でオスカー像を貰えそうなくらい完璧だった(と思う)。
 証拠に彼は俺の返事を聞いて、ふうん、そう?とだけ言ってその後は何も言わなかった。
 ベッドの中でも、その後でも、彼は普段どおりだったし、俺も普段どおりに振舞った。
 ただ俺の中で、これが最後であると決めていただけだ。

 幾度か交わってから俺たちは眠り、短い睡眠は携帯電話が震える音で途切れる。
 それはいつも通り彼を病院に呼び出す電話で、通話を終えてから彼がそっとベッドを抜け出してゆく。
 俺はその時も、バスルームから出てきた彼が身支度を整えている間もずっと、完璧に寝たふりをしていた。
 最初の時は起きている事をあっさりと看破されたけれど、もうそんな事はない。
 余りにも完璧な演技をしすぎて、自分でも自分が寝ているのか起きているのか判断がつかない位だった。

 彼が静かに部屋を出て行った後、ゆっくりと100数えてから、俺は目を開けて起き上がる。
 洋服を持ってバスルームに向かい、身支度を整えてリビングに戻ると、カーテンの向こうは明るくなっていた。

 テーブルの上には家のキーで押さえられた手紙が置いてあり、そこには鍵はポストの中に入れておくか、次に会う時に返してくれればいいという事、そして最後にまた連絡する。と書いてあった。

 俺はその手紙を元通りテーブルに置いてから携帯電話を取り出し、副病院長の1人(ロレックスの方)に電話をかけた。
 そして何もかも言われた通りにします。と伝えた。

 彼の部屋からそんな電話をする事が、俺のせめてもの ―― しかし限りなく無意味でもある ―― 反抗の欠片だった。

 君がそういう頭の良い選択の出来る人間であると、信じていたよ。などと妙な角度で俺を褒め讃える下らない通話を適当に切り上げてから、俺はベッドを軽く片付けて部屋を後にした。

 最後に部屋を出る時、泣いてしまうかもしれないと想像していたのだけれど、涙なんか全然出なかった。
 辺りを照らす薄い朝日のせいで、何もかもが冗談みたいに見えるからかもしれないな。と、思った。

 鍵はもちろん、ポストの一番奥に入れておいた。

 もう何も隠し事はしない。という約束だったので、その日の内に陽介に全てを話した。
 彼は俺の話を全て聞き終わってから溜息をつき、
「だから、やめろって・・・」
 と、まるで自分自身が傷つけられたような口調で、力なく呟いた。
「・・・ごめん、陽介」
 と、俺は言った。
「でもさ、全然平気だとか言って自分でもそう思ってたけど、やっぱり悩んでいたのも事実だし・・・、こうなってすっきりしたって気もするな」
「そんな暢気な事言ってる場合か。
 大体仕事はどうするんだ。そんな話になったら、あそこで働いていられないんじゃないのか?」
「うん、あそこは辞める。副病院長はいい病院を紹介してくれるとか言ってたけどそれは嫌だから、自分で探すよ。ただあんまり近いところだと駄目だって言われてて・・・どうするかなぁ・・・」
「お前な、ばっかじゃねぇの?なんだってそんなにお人よしな事言ってんだ。近いところは駄目って、そんな事まで口を出される筋合いねぇだろ」
「うん、まぁ、それはそうだけど。でも俺だってほとぼりが冷めないうちにバッタリ街で香椎先生と遭遇したりするのは嫌だしさ。
 だから心機一転、引っ越してやり直そうかなと思ってる」
「引っ越すって・・・、どこに引っ越すんだ」
「決めてないけど貯金も相当あるから、仕事辞めたらゆっくり旅行にでも行って、その間にどこに行くか考えるよ」
 と、俺が言うと、陽介は眉をひそめて唇を噛む。

「ねぇ、あのさぁ、ちょっと言ってもいい?」
 それまで ―― 今日もそうだが、これまで香椎先生との件で陽介に相談に来ていた時も一切会話に入ってこようとしなかった沙紀さんが、口を挟んだ。
「黙って聞いててずうっと思ってたんだけど、今まで相手の男の意見が全くと言っていい程出て来てないわよね。
 その香椎って男は直くんに関してとか、この件に関してとか、どう言ってるの?」
「院長の娘と見合いして付き合ってるなら、どう言うもこう言うもねぇだろうが」
 吐き捨てるように陽介が言った。
「でもそれって、副院長たちの口から聞いた話でしょ?今まで話を聞いている限りでは、直くんは一度も相手の意見を相手の口から聞いてないじゃない。別れるとか退職するとか、そこまでの覚悟があるなら、最後に一度くらい、彼ときちんと話し合う事は出来ないの?」
「あの男にいまさら何を言っても無駄だっつの」
 と、陽介が言ったのに、
「ちょっと陽介は黙ってて。あたしは直くんに訊いてるんだから」
 と、沙紀さんが言い返した。

 真剣な視線を送ってくる沙紀さんを見返して、俺は静かに首を横に振る。
「いいんだ。そういうのはしたくない」
「いいって、何がいいの。全然良くないわよ、だってあたしが思うに・・・」
「香椎先生には病院長の地位が約束されてるんだよ、沙紀さん」
 と、俺は言った。
「副病院長が言ってる事は汚いとは思うけど、正しいんだ。陽介は分かってると思うけど医者の世界って本当に難しくて、腕があっても偉くなれない人が一杯いる。ある程度の地位にのぼるのですら大変なのに、今回はあんな大きな病院の病院長に、血の繋がりとかがないのに推されてるって話なんだ ―― そんな大きな話に俺なんかが太刀打ち出来る筈ないし・・・、それにもし、万一俺の存在が先生を悩ませるようなものであったとしても、そんなことはしたくない。先生に用意されているきちんとした未来に、俺がごねる事で面倒な揉め事を起こしたり、混乱させたり、したくないんだ。絶対に、そういうのは嫌なんだよ。
 こんなの、綺麗事言ってるようにしか聞こえないかもしれないけど・・・」
「そんな事、思ってない」
 俺の話を黙って聞いていた沙紀さんが言う。
 顔を上げた俺に微笑みかけ、沙紀さんは続ける。
「直くんが綺麗事を言ってるなんて、これっぽっちも思わないわ。直くんはただ、その人のことが本当に好きなだけなんでしょう、そんな事は分かってるのよ、あたしも、陽介も。
 でも・・・ ―――― 」

 沙紀さんのその言葉を耳にした瞬間、ずっと堪えていた涙がこぼれ落ちそうになってしまい、俺は慌てて上げた右手でさりげなく顔の上半分を隠す。

 俺の前に座る陽介は険しい顔をしたまま何も言わず ―― 沙紀さんは“でも”と言いかけたその先を言おうかどうしようか、かなり長い間考えていたようだったけれど、結局その後の言葉を口にする事はなかった。

 先生が俺の自宅アパートにやって来たのは、それから丁度1週間がたった後の事だった。