Fight C Luv

35 : 買われた身体

 その日、俺は丁度お休みで、自宅アパートでぼんやりとテレビを見ていた。
 ブラウン管の中の出演者たちは、現在の政治情勢についてものすごく真剣な顔をして話し合っていた。
 大切で重要な話なのだろうとは思ったが、それらの言葉は全く俺の耳に入ってこない。
 いや、耳には入ってきているのだが、単語のひとつひとつの意味が上手く掴みとれないのだ。

 集中しようと思えば思うほど心が散漫になってゆく気がして、ため息をつきながらテレビの電源を切る。
 と、同時に、ドアベルが鳴った。

 最初は面倒なので出ないでおこうと思ったのだけれど、何度もしつこくドアベルが鳴るので俺は立ち上がって玄関に向かった。
 そしてろくに外を確かめずにロックを外してドアを開けると ―― そこには怖い顔をした香椎先生が立っていた。

 俺は驚き、驚きすぎて何故か慌ててドアを閉めようとしてしまう。
 しかし先生は刑事ドラマみたいなやり方でドアに足先を挟み、隙間に手を入れて乱暴にドアをこじ開けた。

「あ、あの、どうして・・・、仕事は・・・?」
「君にいくつか、訊きたい事がある」
 俺の質問を無視して、彼が言う。
「俺と会わないって条件で、君が金を受け取ったって聞いた。あれ、本当の事じゃないだろうな」
 怒鳴りつけるような調子で訊かれて、俺は内心、酷く焦った。

 副病院長達もこういう展開を予測していて、だから渡されたお金には“演技料”も含まれている。と言ったのだろうし、言われなくても俺だって、彼に何かを尋ねられる覚悟はしていた。
 でもまさか、家にまで押しかけてこられるとは思ってもいなかった。
 きちんと外を確認してから出れば良かったと後悔したけれど、何もかも手遅れだ。

 だから俺は必死で体勢と呼吸を整えてから顔を上げ、口を開く。
「・・・本当ですけれど、それが何か?」
 俺が答えると、彼はすっと目を細め、何かを確かめる様に俺を見詰めながら顔を顰める。
「どうしてそんなものを受け取るんだよ。突き返せばいいだろう」
「どうして?」
 と、俺は尋ねる。

 その質問は演技でも何でもなく、心からのものだった。
 だって副病院長は言っていた ―― 香椎先生と病院長の娘さんとは何度も会っていて、裏で話は進んでいるのだ、と。
 だったら先生にとってはちょうど良かったのではないかと、俺は思ってもいたのだ。

 俺が金ずくで先生と付き合っていたのなら、ほとぼりが冷めてから愛人なり何なりという形で付き合いを続けるようなどと考えるかもしれない。
 でも俺は本気で先生が好きで、先生だって絶対に、それを知っている筈なのだ。
 そんな人間を側に置いておいては、後々面倒な事になるかもしれないと、考えないのだろうか?
 それすら上手くあしらっていける自信があるのかもしれないけれど、俺の方はそんな自信は全くなかった。

 現時点では“短い間でも一緒にいてくれれば、それだけでいい”と自分をなんとか納得させられている。
 でも今後彼に奥さんが出来て、きっと子供が出来たりもして ―― そんな出来事と自分の気持ちを上手く折り合わせてゆくなんて、俺には出来ない。
 俺はそんな器用じゃない。陽介に以前、そう指摘されたとおり。

 心底不思議そうな俺の問いかけを聞いて、先生も言葉に詰まった様子で黙ってしまう。
 俺は強く唇を噛んでから、続ける。

「遊びの時間は終ったんです。ここら辺が潮時じゃないですか」
「遊び?」、と彼が訊き返す。
「違うんですか」、と俺も訊き返す。
 彼は一瞬の間を取ってから、ふっと笑い、違わないのかもな。と答えた。
「それにしても、君の辞書にはプライドとか、そういう言葉はないのか」
「プライドなんてそんなもの、見たことも聞いたこともありません」
 と、俺は答える。
 当然だ、そんなものを揺ぎ無く持っていたのなら、“一度だけ”などと言って男の人に迫ったりしないし、その日限りと決めて始めた筈のあんな関係を、数ヶ月もずるずる続けたりする訳がないのだ。
「それは先生が一番良く分かっていらっしゃると思いますけど」
「 ―― へえ。それであっさり金を受け取ったっていう訳だ」
「・・・あって困るものでもないですから」

 彼が送って来る挑むような視線をギリギリの所で受けとめながら、俺は眼鏡の副病院長が言った台詞をそのまま拝借して言う。
 彼は馬鹿にした風に鼻で笑ってから視線を靴の爪先に落とし、
「もうひとつだけ、訊いていいか」
 と、言って顔を上げた。

 上げられた彼の顔からは、一瞬にして表情という表情が消し去られていた。
 それは病院で勤務中の時の顔付きに似ていたけれど、ほんの少しずつ、何かがずれている気がしないでもなかった。

 俺は黙って頷く。

「1週間前の真夜中、突然俺に会いに来たよな。あれは一体、何だったんだ」
 無表情のままにそう尋ねられ ―― 今度は俺が返答に詰まる。
 でも黙っている訳にもゆかず、俺は必死で何か適当な言い訳の言葉がないかと考えながら口を開く。

「・・・あ、あれは・・・ ―― 」
「あれは?」
 考える暇を与えない、と言わんばかりに、彼はすぐさま続きを促す。
「あれは・・・あれは、暇、だった・・・というか」
 俺は頭に浮かんだ言葉を、ろくに意味も考えずに口にした。
 それを聞いた彼は、ははは、と壁に大きく書かれた文字を読みあげるような調子で笑い、暇つぶしかよ。と苦虫を噛み潰したような声で言った。

 そして乱暴なやり方でヒップポケットから財布を取り出して、その中から一掴みの1万円札を取り出し、
「今まで支払いが滞っていて、悪かったな」
 と言って、それを俺に向かって差し出した。

 いりません、と声にならない声で拒絶し、首を横に振る俺の腕に、彼は無理矢理お金の束を捻じ込む。
 腕から零れ落ちた1万円札が、微かな音と共に床に散らばった。

「領収書はいらない。これで足りなかったら、後で請求書を自宅の方に郵送しろ」

 呆然とそこに立ちすくむ俺にそう言って、彼は出て行きかけ ―― 最後にもう一度振り返り、隅から隅まで軽蔑しきったような目で俺を眺め、
「それと最後に忠告しておくが、今度暇になった時は生身の人間を使わずに、何か道具を使え。バイブレーターとか、キュウリとかさ」
 と言い ―― 玄関の壁にかけてあった額縁が振動で傾くほど乱暴に、ドアを閉めた。