36 : The End
ロレックスの副病院長に“何もかも、言う通りにします”と伝えた日から1ヶ月後、俺は病院を退職した。
“田舎の母の具合が悪いので”というのを退職理由に挙げたので、変に怪しまれもせず、比較的スムーズに事は運んだと思う。
母親の具合が良くなったら、戻って来い。と坂上さんを始め、多くの人がそう言ってくれるのだけが申し訳なかった ―― 何がどうなろうと、俺がここに戻る事は有り得ない。
そもそも、俺の母はとっくの昔に亡くなっているのだ。二度と“具合が良くなる”事などない。
最初、辻褄合わせの1ヶ月の勤務は精神的に針のむしろ状態になるんだろうな。と覚悟を決めていた俺だったけれど、以外とそうでもなかった。
副病院長たちが何かを言って来る訳でもなかったし、香椎先生は ―― 彼はこれまでと同様、俺には見向きもしなかった。
それに大体今は彼も、俺の事を考えているような余裕はなさそうだった。
大袈裟ではなく俺と彼の関係にケリがついた次の日から、という感じで、彼と病院長の娘さんとの婚約の話と、同時に彼がゆくゆくこの病院の院長に就任するという話が、一気に病院中に広まったのだ。
彼があちこちでお祝いの言葉をかけられているのを俺も見たし、みんな実際に見たそういった事実と想像を折り混ぜて、かしましく噂話をしていた。
その話を聞いて、辛くなかった、と言ったら嘘になる。
でも副病院長と、そして先生からもお金を突きつけられた俺は何だか力が抜けてしまって、悲しみとか虚しさとかは余り感じなかった。
多分、もう少し時間が経ったあとで辛くなるのだと思うけれど、退職してから辛くなるならその方が良かった。
仕事の場にこれ以上プライヴェートの真髄のような恋愛沙汰を持ち込むのは、絶対に嫌だったから。
とは言えやはり最終日の仕事を終えた時は、これで無事に全てを終らせる事が出来たのだと、心底ホッとした。
これで病院を出てしまえば、副院長たちや、香椎先生や、その婚約者の女性(が、時々病院に来る様になっていた。そんなに綺麗な人じゃなかった、身につけているものは一流品ばかりだったけれど)を、金輪際見なくてもいいのだ。
香椎先生とすれ違う度にドキドキしたり、ときめいたりしなくてもいいのだ。
そう、俺はこんな事になっても、未だに彼を見ると反射的に“格好いいなぁ、香椎先生・・・”なんて思ってしまうのだった。
馬鹿みたいだ。実に馬鹿みたいだ。馬鹿馬鹿しすぎて、笑っちゃいたくなる。
こんなこと、“何でも話す”と約束した陽介にだって言えやしない。
自分自身の内面でこうしてこんな風に感じていると自覚するだけで、情けなくなってしまう。
しかし人間はどうあっても、自分だけには嘘をつき通せない生き物であり ―― 正直に本音を言ってしまえば、俺はまだ香椎先生が好きなのだ。
笑ってくれて構わないけれど、でも、こういった事を考えるたび、怖くなる気もする。
これからどれだけの時間をかければ、俺は彼への想いを封印する事が出来るのだろうか、と。
彼の声や、彼の手の冷たさや、時々ふっと掠れる声の雰囲気や、低い笑い声を、俺はどれだけの時間が経ったら忘れられるのだろうか、と。
そして ―― そして何より、どれだけの時間が経ったら、それらを俺は忘れてしまうのだろうか、と。
そんな事を考えながら手早く残っていた荷物を鞄に入れ、ロッカールームを出た。
最後に自分の科に寄って最終的な挨拶をし、病院を後にしようとした俺は ―― 通用口の脇に思いがけない人物が立っているのに気付き、つかえるように立ち止まってしまう。
「秋元さん」
と、通用口に立っていた三田村さんは言った。
そしてゆっくりと、俺の方へと近付いてくる。
俺はその場に固まったようになったまま、動けない。
「秋元さん」
俺の目の前に立った三田村さんが、再び俺を呼ぶ。
「あなたに折り入って話したい事があるのだけれど・・・、ちょっといいかしら」
「・・・あの・・・、俺・・・」
「立ち話もなんだから、どこかに入らない?」
「・・・すみませんが・・・、この後、約束があるんです」
と、俺は言った。
嘘ではなかった。
今日は休みを取っていた陽介の家に、仕事を終えたら直ぐに行く約束になっていたのだ。
「ほんの数分でいいのよ」
と、三田村さんは尚も食い下がる。
「とても大事な話なの。裕仁さんの ―― 香椎先生の事よ、これはあなたにとっても、きっと・・・」
「もうやめてください」
三田村さんが香椎先生の事を名前で呼ぶのを聞いた瞬間に込み上げたものを抑えられず、その込み上げてきたものに突き動かされるまま、俺は強い口調で言った。
今回の件に関して、俺が出来ること、しなければならないと言われた事の全てを、自分が出来る範囲内でやり遂げる事が出来たという安堵感からだろうか。
彼に対する想い、唐突にそれを関係のない第三者に寸断されたこと、彼の将来の為とはいえ、つきたくもない嘘をつかねばならなかったこと、多少なりとも、そのせいで彼を傷つけてしまったこと ――
この1ヶ月間、必死で見ないように、触れないようにしていたそれらが、三田村さんの手によって唐突に空気中に晒け出されるような気がして、痛かった。苦しかった。
三田村さんだって、辛いのは同じかも知れない。
俺と同じ辛さを、抱えているのかも知れない。
でもだからと言って慰めあったりするのはごめんだったし、彼の今後に関して、何か裏工作しようとしたりするのはもっとごめんだった。
「もう終りにしたんです、全部 ―― 全部、終りにしました。だから、もういいでしょう。これ以上俺と話すことなんか、何もない筈です」
「ねぇ、お願いだから落ち着いて、話を聞いてちょうだい。私は単純に裕仁さんの事が・・・」
「やめて下さい、何も聞きたくありません」
「待ってちょうだい、秋元さん ―― 秋元さん・・・!」
掴まれた腕を強く振り払い、足早に歩き出した俺を三田村さんが何度も呼んでいるのは分かっていたけれど、俺は振り返らずにその場を逃げ出した。
三田村さんも、それ以上俺を追っては来なかった。